ふれあい特集号vol.56(デジタルブック版)
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 藤村県令の下、洋風建築による新市街の整備が進められる中、伝右衛門も1875(明治8)年5月、その一角に新社屋を建設し、新聞と出版の事業を精力的に展開した。1876(明治9)年2月、『甲府新聞』を『甲府日日新聞』と改題するとともに、日刊紙として発行した。1878(明治11)年には女性の文化向上を図るために、婦人新聞の先駆け19ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら 内藤伝右衛門(幼名・猪之甫)は1844(弘化元)年、山梨郡八幡北村(現・山梨市)の農家・手塚伊左衛門の家に生まれ、生後間もなく甲府八日町の内藤伝右衛門、満寿夫妻の養子となった。内藤家は屋号を「藤屋」といい絵草子という絵を主とした印刷物や古本、古着、古道具類、布地・反物など幅広く商っていた。店は、養父・伝右衛門が病身であったため、養母・満寿が取り仕切っていた。 1860(万延元)年、養父の死去に伴い、猪之甫は16歳で二代目・伝右衛門を襲名し家業を継ぐ。それまで通っていた漢学者・向山伊之助の塾をやめ幼少期から向学心が強く、国学を学んでいた満寿から教育を受けるようになった。 1870(明治3)年に甲府県権知事に着任した土肥謙蔵は、国学を通して満寿や伝右衛門と知り合い、たびたび藤屋を訪れては国学を論じていた。 一方、新たな国家の基礎固めを終えた明治新政府は、全国民へ政策の周知と徹底を図るため新聞の発刊を推奨していた。本県でも、土肥県令の指示により計画が進められ、県庁学務課が記事を集め体裁を整え、藤屋が印刷と頒布を担うこととなった。伝右衛門は、先に発行されていた『郵便報知新聞』の発行元で、東京日本橋の横山町三丁目で書籍商を営む和泉屋太田金右衛門から新聞事業について多くのアドバイスを受けた。その後、創業資金を捻出したり、当時甲府にいなかった板木師を東京から連れてきたりして1872(明治5)年7月1日、本県最初の新聞『峡中新聞』を発行した。 1873(明治6)年1月、藤村紫朗権令(後の県令)が着任すると、『峡中新聞』の発行権の一切が県から伝右衛門に譲られ、民営新聞が誕生した。同年4月発行の9号から『甲府新聞』と名を改め、県の補助金を得て活版印刷術をいち早く導入し、7月以降は月8回発行するようになった。 また、同年に学制の施行によって県内にも小学校設立が相次いだ。伝右衛門は素早く学校に目を向け、師範学校や小学校の教科書を出版し、県内外の教材普及にも貢献した。となる『をとめ新聞』も発刊した。 一方、「温故堂」の名で『初版甲斐国志』をはじめとする100種ほどの書籍を出版するほか、書籍縦覧館(有料図書館)を開設して図書の閲覧を啓蒙した。また、甲府市内の9カ所に投書箱を設けて新聞紙上に掲載する投書を募集し、採用者には賞与金を贈るなど、斬新なアイデアで本県の文化向上に努めた。 1879(明治12)年2月、『報知新聞』の栗本鋤雲翁より紹介された野口英夫を主筆に迎えると、翌年12月、新聞経営を野口に譲り、出版事業に専念した。その後、文部省との版権訴訟に敗れたことを機に、1883(明治16)年、家業を長男・実太郎に譲り隠居。名を恒右衛門と改めて東京へ移り、神田区同朋町や日本橋区馬喰町三丁目で「温故書院」を経営し、1906(明治39)年、63歳で生涯を閉じた。い のすけでん え も んや わたじょうんま すど ひ けんぞうけいもう才色兼備の養母の下で訓育を受け、国学を学ぶ文明開化が叫ばれる中「峡中新聞」を創刊「初版甲斐国志」をはじめ100種近い良書を出版山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991第7回展示「明治を彩った山梨の人々」期  間 : 4月1日~9月27日えいふ明治28年 従業員との集合写真。2列目中央に伝右衛門と養母・満寿(山梨県立博物館蔵)

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