ふれあい特集号vol.55(デジタルブック版)
19/24

『養蚕日誌』にまとめ、温暖育の導入を目指す人々に配布した。 1884(明治17)年ごろ、政府のデフレ政策の影響で農産物価格が下落し、農家は窮乏した。達也は、これを切り抜けるため、それまで春一回だけだった養蚕を秋にも行えるようにと、1900(明治33)年、夏でも寒冷な富士風穴の蚕種貯蔵所を「八達館」の傘下に収めた。これによって、秋蚕飼育が軌道に乗り、農家の経営安定に大きく寄与した。19山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991 八田達也は、1854(嘉永7)年、山梨郡歌田村(現・山梨市)の志村家に生まれ、八代郡鵜飼村(現・笛吹市)の豪農・八田家の婿養子となった。この辺りは、古くから養蚕が盛んな地域で、ほとんどの農家が、蚕を育てて繭をとり、糸を引いて商人に売り渡していた。財産家として広く知られた八田家も、地主として多くの小作人に土地を貸付ける傍ら、養蚕業を営んでいた。この頃の農家にとって養蚕は貴重な現金収入源だったが、当時の飼育法は、自然環境に近い室内で蚕を飼育する清涼育が一般的だったため、その年の天候に左右され、不作により苦境に陥ることも珍しくなかった。 1859(安政6)年、横浜港の開港により海外諸国との貿易が始まると、生糸は、わが国最大の輸出品となった。1873(明治6)年に山梨県に赴任した藤村紫朗権令(後の県令)は、当時県内で盛んだった蚕糸業に着目し、殖産興業のスローガンの下、積極的な振興策を打ち出した。こうした中、1876(明治9)年に八代郡第一区鵜飼村の戸長になった達也も養蚕業の改良を志すようになった。達也、22歳のときであった。 達也は、良い生糸を得るためには、まず良い蚕種(蚕の卵)が必要と考えた。1881(明治14)年、当時県内で主流だった青熟種に比べ赤熟種が優れていることを説いて普及に努めるようになったが、多くの養蚕農家や蚕種業者の反発を受けた。しかし、これに屈することなく改良方法を講じ、自ら赤熟種で蚕を飼育し、収穫した繭を発表して、説得に当たった。そして、県産種の必要性も強調し、蚕種業者の発奮を促した。 また、28歳で県議会議員になり、その翌年、県内の養蚕農家と「山梨養蚕協会」を結成し、養蚕業に関するさまざまな研究を行い、養蚕技術の向上に貢献した。 さらに、養蚕農家の経営安定のためには、従来の清涼育から、人為的に蚕の生育環境を調節する飼育法への転換が必要であると、県に対して働き掛けた。そして、先進地である福島県へ派遣された県の実習生を招き、温暖育を実践し、自ら改良を加え独自の飼育法を確立していった。その後、詳細を 達也は自らの研究成果をまとめ、1886(明治19)年に『蚕事輯説』、1894(明治27)年に『新撰養蚕書』を出版した。『蚕事輯説』は平易な解説と具体的なイラストで著され、本文の漢字には全て振り仮名が付けられるなど、養蚕を行う農民にとって理解しやすい手引書となっていた。 1888(明治21)年、蚕糸業取締所頭取、翌年には山梨蚕糸協会会長と要職を務めた。その後、山梨県勧業課長などを歴任し、1908(明治41)年には山梨農会長となった。養蚕業の発展に寄せる情熱が強く、私財を投じて研究にまい進した達也。幻灯機を購入して各地で映画による講話会を開いたり、全国を遊説して回ったりと、終生を通して養蚕業の振興と啓蒙活動に心血を注ぎ、1916(大正5)年、62歳の生涯を閉じた。第6回展示「日本の発展に貢献した山梨の人々」期  間 : ~3月27日あおひきあかひき『蚕事輯説』挿絵“熟蚕を撰み拾ふ図”(山梨県立博物館蔵)殖産興業の下養蚕の改良を志す先進地の温暖育を改良独自の飼育法を確立手引書を著し講話会を開き養蚕技術の普及にまい進

元のページ  ../index.html#19

このブックを見る