ふれあい特集号vol.54(デジタルブック版)
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17山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)山梨中銀金融資料館ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991 栗原信近は、1844(弘化元)年巨摩郡穴山村(現・韮崎市)の豪農に五男四女の末っ子として生まれた。代々長百姓・年番名主を務めていた栗原家は、家塾「松ノ舎」も営み、子弟の指導を行っていた。小さい頃から奔放だった信近だが、16歳のとき、栗原家と親交のあった国学の大家・堀秀成の話を聞き感銘し、生まれ変わったかのように学業に励むようになった。 1862(文久2)年、長兄・信敬の逝去に伴い18歳で家督を相続した。1870(明治3)年に郡中総代となり、2年後に巨摩郡第十区戸長(後に県庁定詰区長)を経て、1873(明治6)年に区長総代理に選出される。着任間もない藤村紫朗権令(後の県令)の信頼を得て、側近の一人として県政にも携わるようになっていった。 藤村県令の片腕となり働く信近は藤村から、欧米諸国の産業が旺盛を極めているのは金融機関が完備されているからであり、本県も県内資本を活用すればそれが可能となると聞いた。信近は、県内を東奔西走して豪農や富商を強く説得し、15人の出資者を集めると、1874(明治7)年、本県初となる金融機関「興益社」を設立し、社長に就任。信近、30歳のときであった。1876(明治9)年に国立銀行条例が改正されると、興益社を発展させ、翌年、第十国立銀行(現・山梨中央銀行)を開業し、初代頭取に就任。1882(明治15)年まで務めた。 この間、信近は一貫して「金を貸す前に知恵を貸す」をモットーに、常に自分の着想を練り、新しい企業の育成・振興に努めた。また、利益にはこだわらず事業の実現性が高く公益を助けるものには惜しみなく助成した。一方で「興産金」と称する日本初の少額複利預金を創案し、貯金を奨励した。 第十国立銀行の融資を受け、信近の指導によって多くの企業が誕生した。中でも信近が意欲を燃やし指導したのが、牧畜、開墾、織物、陶磁器など幅広い起業を目的とした「農産社」の設立であった。甲府盆地で産出されていた在来綿から綿糸を作り、製糸と並ぶ県産業の主軸にしていこうと考えていた信近は、農産社の一事業として紡績所経営を構想し、創業に向けた準備を始めた。しかし、そのさなか、景気悪化のあおりを受けて農産社が倒産。多くの出資者に多大な迷惑をかけるとともに、自らも第十国立銀行頭取の座を追われた。資金調達を断たれた信近だったが、周囲の反対を押し切り、紡績所の経営計画を断行。1882(明治15)年、私財をなげうって市川大門に市川紡績所を建設し創業にこぎ着けた後、経営を他に譲った。そして、全ての公職から退いた。 その後、信近は、故郷穴山村に「千種庵」を構え、農業改良活動に勤しみ1898(明治31)年から約10年間に山梨農会、甲州葡萄栽培同業組合、信用組合期成同盟会など多くの団体の設立を指導、育成した。この間、1901(明治34)年からは、穴山村長として村政の立て直しと穴山駅の誘致に取り組んだ。1902(明治35)年に勝沼のブドウ郷に白渋病がまん延し壊滅の危機に陥った際には、ボルドー液を推奨し、自ら噴霧器を背負ってブドウ園を行脚するなど、郷土の発展に尽くした。 幾多の困難に見舞われながらも、終生わが身を顧みることなく、山梨の殖産興業に努め公益を追求した信近は、1924(大正13)年、80歳の生涯を閉じた。第6回展示「日本の発展に貢献した山梨の人々」期  間 : 10月1日~平成30年3月27日開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 金・土曜日、祝日/12月29日~1月4日入館料 : 無料TEL 055-223-3090 FAX 055-223-3091住所 甲府市中央 2-11-12 「栗原信近」 企画展 期  間 : 11月1日~12月27日のぶちかいそ明治中期の第十国立銀行(山梨中銀金融資料館蔵)国学の大家・堀秀成との出会いが転機となる第十国立銀行を設立し企業の育成に力を注いだ全財産を投じ紡績所を創業郷土の産業発展に尽力

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