ふれあい特集号vol.52(デジタルブック版)
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17山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら幕臣の次男に生まれたがキリスト教の伝道師に甲府教会に牧師として赴任山梨英和女学校設立に尽力牧師を辞して民俗学・考古学研究の道に開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991 山中共古は、1850(嘉永3)年、江戸の四谷仲殿町(現・東京都新宿区)に徳川家の御家人・山中三九郎保全の次男・平蔵として生まれた。共古は筆名である。 共古は、和宮親子内親王の広敷添番に登用され、江戸城で和宮に仕えていたが、1868(明治元)年、徳川家が駿府移封となると、駿府へ移住。静岡藩の静岡学問所の英学生となり、そこで、E・W・クラークら外国人教授に影響を受けた。 1874(明治7)年、カナダ・メソジスト教会の宣医師D・マクドナルドから受洗し、キリスト教徒となった。その後、帰国したマクドナルドに代わり、1878(明治11)年頃から伝道活動に従事するようになった。1881(明治14)年、東洋英和学校神学科(現・麻布中学校・高等学校)を卒業。翌年、正式に日本人初のカナダ・メソジスト教会の牧師となった。 1886(明治19)年、甲府教会に牧師として赴任した共古は、甲府教会や日下部教会を拠点に、布教活動に勤しみ、峡東の名望家・飯島信明、中沢徳兵衛らに洗礼を施し、甲府教会の移転新築や山梨英和女学校(現・山梨英和中学校・高等学校)設立にも尽力するなど、県内に新たな欧米文化の種をまいた。 一方、布教のために訪れた県内各地の人々の暮らしをはじめ風習、石仏、骨董などに興味を抱き、それらを端正な絵と端的な文にしたためた。それらの成果は、『東京人類学会雑誌』などで発表し、中央に山梨の民俗風習を知らしめた。そして、この論説は当時、藤村県政で県内の近代化が進められる中、変容したり消散したりしていく山梨の民俗をつぶさに書き留めた貴重な記録となった。 1893(明治26)年、山梨を離れた共古は、東京、静岡の各教会で牧師を歴任しながらも、それぞれの地域の民俗に興味を抱いた。民俗学が学問として確立する以前からその分野の研究に励んだ共古は、民俗学者の柳田国男や藤井貞幹、松浦武四郎らと交流した。特に柳田国男とは、道祖神や甲斐奈神社(甲府市)にみられる「石神」について意見を交わし、共に探求するなど親交を深めた。 1912(明治45)年、牧師を辞した後は、青山学院(現・青山学院大学)の図書館に勤務(後に館長となる)する傍ら、民俗学・考古学研究に取り組んだ。実地調査を重んじ、挿絵入りの報告書や論文を発表しながら、牧師時代の見聞を基に、『土俗雑語』『見付次第』『吉居雑話』など多くの作品を執筆した。その一つ『甲斐の落葉』には、甲府教会赴任中の約7年間に捜集した、衣食住をはじめ人生儀礼、慣習、道祖神祭りなどの年中行事や、方言、伝説、俗信、歌謡など多岐にわたる当時の山梨の姿が克明に記録されている。柳田国男は、その内容を高く評価し、自ら編集する『炉辺叢書』の一冊として1927(昭和2)年に刊行した。 1928(昭和3)年、79歳で生涯を閉じた共古。その生涯にわたる探求は後進の登場を促し、一連の著書は今も山梨県の民俗学研究の礎となっている。第5回展示「郷土のために尽くした人々」期  間 : 4月1日~9月27日ひろしきそえばんかずのみやちかこないしんのうきょうこみ つけ し だいど ぞくぞうごろ へんそうしょきっきょこっとう(左)『甲斐の落葉』で紹介されている明治時代当時の甲斐の道祖神。(右)記述された丸石の道祖神は、現在も甲斐市に残っている

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