ふれあい特集号vol.51(デジタルブック版)
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17山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら幼少期の出会いが人生を変えることに生涯の指針となった黒田清輝の言葉漫画記者と画家のはざまで私的世界追求のため院展芸術から個展芸術へ開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991 近藤浩一路は、1884(明治17)年、南巨摩郡睦合村(現・南部町)に近藤麟次郎の長男として生まれた。近藤家は南部宿の本陣を務めた家柄で、祖父・喜則は初代県議会議長だった。3歳の頃、父の療養のため静岡県庵原郡岩淵村(現・富士市)へ移住。父が死去して以降は、祖父の援助の下で育てられた。韮山中学校(現・静岡県立韮山高校)卒業後は、医師になるために上京したが、第一高等学校(現・東京大学)を3回不合格になると、祖父から好きなことをしてもよいと許しを得た。幼少より絵が好きだった浩一路は、小学校時代に、友人宅で画家・和田英作(後の東京美術学校長)と出会ったことを思い出し、和田の門をたたく。和田の家から白馬会研究所へ通い、21歳で東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学した。 当時の白馬会研究所には、黒田清輝、藤島武二ら近代洋画の大家がいたので、浩一路も多大な影響を受けた。中でも「君には光に対する良いセンスがある。それを生かすような仕事をしなさい」という黒田の言葉は、生涯の指針となる。美術学校では、藤田嗣治、岡本一平らと親交を深め、濱谷白雨から墨の奥深さを説かれ、水墨画を描き始めた。1910(明治43)年、美術学校を卒業すると、活動の場を文部省美術展覧会(文展)に求め、第4回文展に「京橋」を出品し入選。洋画制作に打ち込む一方、水墨画や漫画の制作にも取り組んだ。 浩一路は、1913(大正2)年、京都女子美術学校の洋画教員になり、翌年生徒の一人、白井清子と結婚。生活の安定を求め、1915(大正4)年に挿絵や漫画を描く漫画記者として読売新聞社に入社すると、朝日新聞社の漫画記者で旧友の岡本一平と「一平・浩一路時代」を築く。しかし、漫画を描く中で、白と黒の世界に興味を持った浩一路は、「芸術的真剣味を真正面からぶつかって現してみたい」という念願が捨て切れず、1919(大正8)年の第6回日本美術院展(院展)に本格的な日本画を出品、初入選を果たすことになる。 1923(大正12)年の第10回院展に、洋画で培われた写実的描写と南画的な叙情性に、どこか漫画的な愛嬌ある登場人物や鵜を加味し、幻想的な雰囲気を醸し出した水墨画の大作「鵜飼六題」を発表。この作品が浩一路の代表作となった。以降、日本の情景を、たっぷりと水を含んだ墨によるにじみやぼかしによって、湿潤で夢幻的な世界として展開していく。 世間の評価が高まる中、1931(昭和6)年、二度目のフランス旅行で批評家のアンドレ・マルローと親交を深めた浩一路は、滞在中にパリで個展を開き成功。その後、日本美術院を脱退し、東京府北多摩郡久留米村(現・東京都東久留米市)にアトリエ兼自宅「土筆居」を構える。 戦争末期には静岡県榛原郡金谷町(現・島田市)へ疎開。その後、山梨県東山梨郡勝沼町(現・甲州市)、南都留郡中野村(現・山中湖村)へと転居し、終戦後は東京都豊島区巣鴨に「土筆居」を再建する。1959(昭和34)年には日展会員となり、晩年は悠々自適に絵画制作の日々を送り、1962(昭和37)年、78歳の生涯を閉じた。第4回展示「日本の文化を興した山梨の人々」期  間 : ~3月27日こういちろはま や はく うさし え《雨期》1951(昭和26)年(山梨県立美術館蔵) 2月26日まで県立美術館で展示中つくし きょ

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