ふれあい特集号vol.50(デジタルブック版)
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17山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら外国に興味を抱き始めた青年期東日本初、日本人として国産ビールの醸造に成功京都府博覧会で銅メダルを獲得私財を投じて築いた国産ビールの礎開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991 野口正章は、1849(嘉永2)年、近江国蒲生郡綺田村(現・滋賀県東近江市)に、近江商人・野口正忠の嫡男として生まれた。野口家は全国に11の支店を有し、「十一屋」を屋号としていた。甲府には1704(宝永元)年に進出。正章は支店のある甲府に移住して、酒造業等を営業した。 正章の父は、漢詩を読む文化人で富岡鉄斎といった一流の画家などとも広く交際し、彼らが自宅に滞在することも多かった。文化人に囲まれて育った正章は、「錦雲」の雅号を持ち書画に親しむ一方、諸外国の事情にも強い興味を抱き、舶来品の収集にも熱中していた。 1870(明治3)年、アメリカ人のウィリアム・コープランドが横浜居留地で日本初のビールの醸造を始めたころ、正章もビールの研究を始めていた。 その後、県内の殖産興業と西洋化を進めた県令・藤村紫朗の後押しもあり正章は本格的にビール醸造に着手した。醸造器具は横浜で新調し、富士川舟運で甲府へ運んだ。しかし、6尺の大釜は運ぶことができず、現地で売却して甲府で改めて鋳造した。瓶は横浜でビールの空き瓶を集め、神奈川県の真鶴から箱根山を越え芦ノ湖を渡り、御坂峠を経由して甲府へ運んだ。途中、未整備の区間については、私財を投じて新たに道を切り開いた。醸造技術は横浜からコープランドとその弟子を招き、正章自ら、1年にわたって指導を受けた。原料の大麦は山梨県産を確保。ホップは、笹子峠付近に自生していた野生の物を使用したこともあったが、ビールが腐敗してしまったため、高価なドイツ産を使用せざるを得なかった。 こうして数々の苦難を乗り越え、東日本初の日本人の手によるビールが誕生。「三ツ鱗ビール」と名付けられたビールは、1874(明治7)年、販売が開始された。正章、25歳のときであった。 当時、ビールは日本人にとって物珍しい飲み物であり、ビール特有の苦みもあって、甲府での売れ行きは低調だった。正章は、東京、横浜への販売を試み新聞に広告を出すなど宣伝に努めながら、研究を重ね、ビールの品質向上にも取り組んだ。そのかいがあって、品質が高く風味もよい国産ビールが醸造できるようになり、1875(明治8)年の京都府博覧会では、銅メダルを獲得した。正章は、製品が世間に認められたことを跳び上がって喜んだという。 1877(明治10)年、正章は、交友のあった日本画家・松邨親(小蘋)と結婚。当時、女流画家として才覚を現しつつあった小蘋は、商標図案や贈答物の絵付けなど正章の商売も手伝った。 先祖代々受け継がれてきた財産を後ろ盾に、多額の費用をつぎ込んだビール事業だったが、売り上げは一向に伸びず収支も折り合わなかった。周囲からの反対の声も高まり、1882(明治15)年正章はついにビール事業から撤退した。 その後、家督を弟・忠蔵に譲り、妻子とともに東京へ移住した正章は、絵筆を握り、和歌や漢詩を作り、父親のために編んだ「かざ志の花」をはじめ、多くの作品を出版。晩年は、有名になった妻とともに風流を楽しみ、1922(大正11)年74歳の生涯を閉じた。 ビール事業は時期尚早で大成に至らなかったが、国産ビールの発展の礎を築いた正章は、先駆者として名を残している。 当時人気のあったイギリス製のバースビールの商標・一ツ鱗(三角形の文様)と、野口家の家紋・三柏と掛け合わせ「三ツ鱗」としたとされる。第4回展示「日本の文化を興した山梨の人々」期  間 : 10月1日~平成29年3月27日まさあきらじゅういちやが もうかば たきんうんみつうろこしょうひんちかまつむら三ツ鱗ビールのラベル(山梨県立博物館蔵)現在のバースビール

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