ふれあい特集号vol.48(デジタルブック版)
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19山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら権参事として山梨へ赴任「大小切騒動」の収拾を図る開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/12月29日~1月3日入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-0991 富岡敬明は、1822(文政5)年、佐賀藩の支藩、小城藩の藩士・神代利温の次男として生まれ、同藩士・富岡惣八の養子となった。 1842(天保13)年、藩主・鍋島直亮の側役となり、江戸藩邸の御留守居介役などを務め、将来を嘱望される身であったが、1864(元治元)年、藩の将来を憂慮した有志が起こした太田蔵人成敗未遂事件に際し、首謀者として死罪を言い渡される。獄中で明治維新を迎えたが、1869(明治2)年、恩赦となり佐賀藩に仕えた。廃藩置県が行われ、伊万里県(現・佐賀県)の権参事に任じられ、明治政府の地方高官として頭角を現していった。  1872(明治5)年3月、山梨県権参事を任じられ着任。その頃山梨では、山梨・八代・巨摩3郡の農民に有利な「大小切税法」の廃止をめぐって、政府・県庁と農民の対立が深刻化しつつあった。8月に廃止の告知がなされると、甲府盆地東部の住民6千人が武装蜂起し、県庁へ撤回を迫るという「大小切騒動」が起こる。このとき、土肥謙蔵県令を補佐し、農民を説得するなど、対応に当たったのが敬明だった。土肥県令は一度は農民の要求を入れたが、軍隊の到着とともに要求を却下。3800人近くが罪に問われ、首謀者として2人が死刑となった。敬明は、処罰として犠牲者を出したことを後々まで残念に思っていたという。 1873(明治6)年、大小切騒動の責任を問われ罷免された土肥に代わって、藤村紫朗が着任し、県内の殖産興業に乗り出した。敬明は、日野原(現・日野春)の開拓を提言し、自ら責任者となった。退庁後、馬で日野原へ駆け付け、大声で激励する敬明を、開拓者たちは「敬明さん」と慕い、荒れ野を開墾して、桑、茶、ブドウなどを植え付けた。後年、この地には「富岡」の地名が付けられた。 また、1874(明治7)年に日野原に設立した養蚕伝習所へ、県内先進地から養蚕技師を派遣し、地元青年たちの定着を支援した。 1875(明治8)年、敬明は名東県(現・徳島県)権令の命を受け山梨を後にし、翌年には熊本県権令となった。当時の九州は、明治政府への不満が渦巻いていて、1877(明治10)年2月、西南戦争が勃発する。敬明は熊本城内に籠城し、西郷隆盛の軍勢の進軍を阻止した。 戦争収束後は、戦乱からの復興のため、旧制第五高等学校(現・熊本大学)の誘致、山梨から技術者を招いての製糸業の振興などに尽力。さらに、九州産の石炭を輸送するため、宇土半島の西端に三角港を建設、1887(明治20)年に開港した。 1891(明治24)年、熊本県知事を退任し貴族院議員となった敬明は、こと夫人と共に山梨へ移住する。 政界引退後、西山梨郡里垣村(現・甲府市)に建てた洋風建築の私邸「双松山房」にて、漢詩集「雙松山房詩史」を刊行するなど、山梨の漢詩壇の中心人物として活躍した後、1909(明治42)年、88年の生涯を閉じた。けいめいお ぎ西南戦争では熊本城に籠城その後、三角港を建設地方高官として頭角を現す日野春開拓に心血を注ぐ大正期の三角港。「明治三大築港」と称され、明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録された(宇城市教育委員会提供)みょうどうみ すみ山梨を終の棲家についすみ かそうしょうさん ぼう し しくましろ第3回展示「近代山梨を築いた人々」期 間 : 4月1日(金)~9月30日(金)

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