ふれあい特集号vol.46(デジタルブック版)
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19幕府の外交官僚として国内外で活躍学問、武勇に優れた甲斐の天才児山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階・3階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら官営郵便事業を創設し初代駅逓正に開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/年末年始入館料 : 無料TEL 055-231-0988 FAX 055-231-09911864年に杉浦ら横浜鎖港使節が立ち寄ったエジプトのスフィンクス前で撮影した記念写真(国立国会図書館蔵『日本人(第3次)』34号より) 杉浦譲は、1835(天保6)年、甲府二十人町(現・甲府市相生)に、甲府勤番同心・杉浦七郎右衛門の長男・昌太郎として生まれた。 幼少のころより聡明だった譲は、私塾を経て11歳で徽典館(山梨大学の前身)に入学。18歳の時には自宅に塾を開き、門人を教えるようになった。徽典館を優秀な成績で卒業し、19歳で教授方手伝見習に採用され、3年後には教授方手伝に昇格。一方、文武兼修は武士たる者の本分と武芸の修練にも励み26歳で免許皆伝を受けると、師より門人を譲り受け、剣術道場を開くなど文武に優れていた。 1861(文久元)年、江戸幕府より「外国奉行支配書物御聞出役」の辞令を受け出仕。1863(文久3)年12月池田筑後守長発を正使とする横浜鎖港使節に随行し、徽典館に勤めていたころから親しくしていた田辺太一と共に渡仏。約7カ月間に及ぶ出張で、欧州諸国の文物に触れ、見聞を深めた。 その後も、1865(元治2)年3月長州藩の軍船売買に関する調査のため上海へ出張。1867(慶応3)年1月には、パリ万国博覧会の将軍名代・徳川昭武に従い再び渡仏するなど、幕府の外交官僚として活躍した。 そのころ、日本は大きな転換期を迎えていた。譲がパリ万国博覧会から帰国した同年10月、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜により大政奉還がなされ幕府は崩壊し、明治新政府が発足した。1868(慶応4)年5月、外国奉行支配組頭になっていた譲は、新旧政府外国事務引き継ぎを完了すると役職を辞し、駿府移封となった徳川家第16代家達に従い、9月、静岡に移った。 1870(明治3)年、静岡学問所の教授を務めていた譲の元に明治政府より徴命が届き、出仕。民部省で交通・通信をつかさどる長官に当たる駅逓権正を務めていた前島密と共に、郵便事業の準備に取り掛かり、同年6月、太政官へ官営郵便事業の創設を建議、採択された。その直後に前島が英国出張を命じられたため、代わって駅逓権正となった譲は、2度の渡仏で欧州の通信制度を頻繁に利用した経験を生かし、制度設計やインフラ整備をはじめ、ポストや切手などの意匠、従来の郵便業者であった飛脚への対応などの実務に当たった。 1871(明治4)年3月1日、譲の総指揮の下、官営郵便事業が東京・大阪間で開始された。初日の郵便物は、174通だったという。同月、初代駅逓正に昇進した。後に日本中に広がっていく定期的かつ定額料金で利用できる郵便事業の創設は、日本の通信に革命をもたらし、その後の近代化に大きく貢献した。 その後、譲は多方面で卓越した能力を発揮し、運輸会社の設立や、富岡製糸場、東京日日新聞の創業にも関与。大久保利通内務卿の懐刀と称され、内務省地理局長などを歴任し、近代国家建設に携わった。しかし地租改正のための測量に奔走する激務の中で病に倒れ、1877(明治10)年8月22日急逝。数々の功績を残し、43歳で生涯を閉じた。いえさとながおき ちくごのかみ えきていごんのかみえきていのかみひそか き てん かんゆずる

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