ふれあい特集号vol.45(デジタルブック版)
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19政治活動で能力を発揮し、頭角を現す小林一三らとの寄宿生活で積極性や大志を育む山梨近代人物館山梨県庁舎別館2階・3階(甲府市丸の内1-6-1)ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら甲州財閥の先達から薫陶を受ける文化文運の高揚に意を注ぐ開館時間 : 午前9時~午後5時休館日 : 第2・4火曜日/年末年始入館料 : 無料TEL055-231-0988 FAX055-231-0991 河西豊太郎は、1874(明治7)年巨摩郡十日市場村(現・南アルプス市若草地区)に、豪農河西兵一郎の次男として生まれた。長男早世のため、継嗣として育てられた豊太郎は1885(明治18)年、父の逝去により11歳で家督を相続する。翌年、三恵小学校を卒業するが、あまりに内向的な性格を心配した母の勧めで、自由民権運動家 加賀美平八郎が経営する私塾「成器舎」に入塾。3年間、漢学や英語、数学を学んだ。寄宿舎で、後に政財界で名を成す小林一三らと寝食を共にするうちに、積極的で気概のある青年へと成長した。卒業後は当主として家業を継ぐため進学を断念し、帰郷。しかし胸の内に潜む大志は抑えきれず、栃木県の那須野ヶ原や北海道の新天地開拓を志したが、周囲の反対などにより頓挫した。 その頃、日本は大きな変革期を迎えていた。1889(明治22)年、大日本帝国憲法制定、翌年には第一回帝国議会を務め注目を浴びた。1942(昭和17)年には、本県選出最後の貴族院議員となり、活躍した。 また、1920(大正9)年の忍野電力会社創設を皮切りに、実業界にも進出。戦前戦後を通して数多くの企業の設立や経営に携わり、富士身延鉄道(現在のJR身延線)の創設に尽力するなど、産業面においても偉大な業績を残した。 一方、自らも嘯月の雅号で詩作にいそしみ、三江の雅号で絵筆を執るなど、芸術に対する深い理解と高い見識を持ち、文化振興に対しても意を注いだ。根津嘉一郎の遺志を受け継ぎ、豊太郎が中心となって設立した根津美術館(東京・南青山)は、後に、日本における代表的な美術の殿堂となった。 政治に、実業に、文化に多くの功績を残した豊太郎は、1959(昭和34)年85歳で生涯を終えた。開会と、近代国家としての体制が急速に固められていく中、政治活動に多くの青年が心を躍らせた。豊太郎の恩師加賀美平八郎もその一人であった。豊太郎は、尊敬する加賀美を通して、県政界で活躍する進歩系運動家たちとの交際が始まり、政治的な会合にも参加するようになっていった。 1899(明治32)年、憲政本党支部が発足し、25歳の豊太郎も幹部役員に名を連ね、各方面から注目されるようになっていった。1904(明治37)年には、村会議員に当選した。30歳だった。 加賀美失脚の後、豊太郎は、県内進歩派の首脳となった根津嘉一郎から政治や実業の面で大きな影響を受けることとなる。根津の衆議院議員選挙において、総参謀を担った豊太郎の采配振りや統率力は、欠くことのできないものであり、その政治力は高く評価されるようになった。こうして、県政界での地位を固めた豊太郎が、中央政界へ乗り出したのが、1917(大正6)年の衆議院議員選挙。43歳にして見事初当選を果たすと、一年生議員ながら院内幹事根津嘉一郎(前列左から4人目)を囲んで。豊太郎は前列右端しょうげつさんこうせい き しゃ(個人蔵)

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