ふれあい特集号vol.44(デジタルブック版)
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19だいしょうぎり尊王攘夷運動に参加大小切騒動後、山梨県令に県民への対応を改善し県庁の信頼回復に尽力教育の振興と製糸業の先進県への発展甲府市藤村記念館国指定重要文化財 旧睦沢学校校舎甲府市北口2-2-1 TEL 055-252-2762 ふれあい〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら心血を注いだ殖産興業と道路建設1875年、睦沢村(現・甲斐市亀沢)に建てられた。代表的な藤村式建築の一つ。2010年、甲府駅北口に移転し、交流ガイダンス施設として新たに開館。 藤村紫朗は、1845(弘化2)年、熊本藩士黒瀬市左衛門の次男として生まれた。十代で京に上り尊王攘夷運動に参加。1863(文久3)年に脱藩し、翌元治元年の禁門の変では長州藩に加わり参戦した。1868(慶応4)年の戊辰戦争勃発時には、新政府軍の軍監として北陸路を転戦。この頃から、藤村姓を名乗るようになる。明治政府では行政官として大阪府参事などを歴任した。 1873(明治6)年1月、前年8月の一揆(大小切騒動)の責任を取り罷免となった土肥謙蔵の後任として山梨県権令に。翌年10月、山梨県令に昇任した。  大小切騒動での県の仕打ちを恨む者も多く、県令の威信は失墜、県庁への不信感が渦巻く中、このままではどんな施策も効果を上げることはできないと考えた紫朗は、『山梨県職制条例』『事務章程』を発布。県吏は人民の代理者であり、権力によって束縛するのではなく、人 また、県産生糸を輸送する馬車が通行可能な道路の建設・改修にも注力。1874(明治7)年1月の『道路開通告示』では、山梨は交通が不便で商工業が発達しない、これを打破するため、自力で取り組もうと呼び掛けると、村々からは道路用地の提供や寄付の申し出が相次いだ。これにより、甲州街道や駿州往還、信州往還といった主要交通路や橋梁の整備を進め、「道路県令」と評された。 教育の振興にも意欲的で、県民に、学問に励み、身を立てることが国の富強をもたらすと説き、生活の無駄を省いて小学校を整えるよう呼び掛けた。1875(明治8)年には他県に先駆けて山梨県師範学校を開設。翌年、甲府錦町に文明開化の象徴ともいえる擬洋風三階建て塔屋付き校舎が完成した。後に「藤村式」と称される擬洋風建築の校舎の広がりとともに、就学率も全国平均をはるかに上回るようになっていった。 紫朗の政策により、山梨は製糸業の先進県へと発展。1884(明治17)年には、県民一人当たりの農工生産物価額が20円79銭(全国2位)となり、県民の生活は豊かになった。 1886(明治19)年、地方官官制の制定により山梨県知事となった紫朗は、翌年、愛媛県知事へ転任し山梨を去った。晩年は故郷熊本で過ごし、1909(明治42)年1月、63歳で生涯を閉じた。民の権利を保護し、公益を重視して、発展へと誘導するよう諭した。 そして、砂利の上に座らせ要件を話させていたのを、板の間に毛布を敷いて県吏が県民と同じ高さで接したり、県民宛て文書をそれまでの呼び捨てから「○○殿」とするよう改めたりした。また、区長の代表を県庁に詰めさせて施政の相談相手としたり、自ら県内各所に出向いて市井の意見に耳を傾けるなど、県への信頼感の回復に努めた。 施政においては、1873(明治6)年4月20日に『物産富殖ノ告喩』を発し蚕糸業の発展に県全体で取り組めば多くの収益が得られると県民に語り掛け、大蔵省より貸与された資金を元手に、日野原(現・北杜市長坂町)の開墾に着手。桑苗を植栽する一方、県産生糸改良のため、1874(明治7)年、甲府錦町に県営勧業製糸場を建設。群馬県の富岡製糸場に次ぐ国内2番目の規模であった。さらに、福島など蚕糸業の先進地へ伝習生を派遣したり、150万本の桑苗を信州から手に入れて村々に分け与えたりと、さまざまな蚕糸業振興策を推し進めた。

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