ふれあい特集号vol.44(デジタルブック版)
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きっかけは一冊の本と偶然見つけた古い版木原動力は、ただ楽しいってこと河口が大好きだってこと『河口湖町誌』をはじめとする文献から河口地区の歴史だけ抽出し「河口アーカイブス」を作成した発見した『富士山牛王宝印図』の版木と、それを使った現代版富士山信仰装束「牛王宝印Tシャツ」。胸の文字(写真上)は「生土(うぶすな)」と読み、河口地区で独自に使われていた符号。富士山が日本の総鎮守という意味がある苦心して再現した「河口御師料理(神饌献立)」。神様への供物を使用した料理を食すことで道者は身を清め、その後、神様である富士山に登拝したというふれあい一瞬を大切にきらめく やまなしのシュン!上の坊プロジェクト検索いました。江戸時代に富士講で栄えた富士吉田の御師町より歴史が古く、起源は平安時代末期にまでさかのぼるといわれています。  「特に歴史好きなわけではないけれど知らないことが次々と出てきて、それがとんでもない話ばかりなんで、すごく楽しい。地元で見つけた最高の遊びですね。本気で遊びたいから、真剣に勉強するし調べものもします。河口に埋もれていたものがそれだけ本物だってことです」 文献とフィールドワーク、発見した宝物。それらをつなぎ合わせていくと、表舞台から消えかけていた郷土の歴史が、ぼんやりと形を成し、誇らしく輝いて見えてきました。 今の地図には記されていない富士山北口最古の登山ルート「船津口登山道」の復活、「河口御師料理」の再現、そして、御師の仕事の一つ「代参」の精神を復活させ2011年から続けている「富士山震災復興祈願登拝」。大好きな河口御師の歴史をひもとくのが楽しく、世に伝えたいとの一心で取り組んできました。 「なんで田舎の神社がこんなに大きいんだろう…」。昔から不思議に思っていた河口浅間神社が、2013年の富士山世界遺産登録により、その構成資産に。「信仰の対象としての富士山」を物語る存在として世界に認められたのです。「河口にこそ、北口富士山信仰のルーツがある」と考える外川さんが、自らの主張を実証しようという決意をさらに強くした瞬間でした。 河口地区で見つかった富士山の神様「木花開耶姫」の古い木像が、河口浅間神社に奉納されたというニュースも、仕掛け人は外川さんでした。 「今年は富士山の山開きに合わせてかがり火を復活しようと計画しています。『甲斐国志』によると、こんな小さな地区の3カ所でかがり火をたいていたことが分かったんです」と目を輝かせます。 今年の夏、富士山の登山道から下界を振り返ると、ちょうど河口浅間神社の上辺りに、「天」の文字が浮かび上がって見えるかもしれません。 「これは本当のことだろうか」。たまたま手に入れた古い『河口湖町誌』には外川真介さんが生まれ育った富士河口湖町河口地区の信じられないような歴史がつづられていました。他の資料も手当たり次第に読みあさり、あらためて町を歩いてみると、そこには歴史を証するものがたくさん埋もれていました。 「特に富士山との関わりは、多くの人に伝えないと、もったいないって思ったんです」。生来の凝り性に火が付き、2009年、「河口に埋もれた歴史の掘り起こしと復興」を目的に『上の坊プロジェクト』を一人で立ち上げました。 最初に発見したお宝は、富士山信仰の道者の装束などに刷られていた『富士山牛王宝印図』の版木。それはまぎれもなく400年前に最盛期であった「河口の御師町」の存在を裏付けるものでした。そして、外川さんは絵柄から河口御師ならではの奥深い世界観を読み取りました。 御師とは、富士山に詣でる人たちの宿泊の世話から祈祷、案内など一切を請け負った地元の神職者のこと。河口地区には、140もの御師の家が軒を連ね、富士山信仰の一大聖地を形成してじょうぼうご お う ほう い んとうお  し17このはなさく や ひめしんせんこんだて

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