ふれあい特集号vol.43(デジタルブック版)
19/24

清泉寮のポール・ラッシュ像は富士山を見詰めている ポール・ラッシュは、1897(明治30)年、アメリカ合衆国・インディアナ州で生まれ、ケンタッキー州で育った。1925(大正14)年、ポール28歳の時、関東大震災で被災した東京と横浜のYMCA(キリスト教青年会)会館再建のため初めて日本を訪れた。 1年の任期を終えた後、立教大学で教壇に立ったポールは、教えを請う学生たちの熱心さや、ひた向きさに触れる中で教育に目覚め、彼らの支えになろうと考えるようになっていった。 1927(昭和2)年、ポールは次世代を担うクリスチャンリーダーの育成に取り組むため、教え子を中心に日本聖徒アンデレ同胞会(BSA)を設立。その後、東京の聖路加国際病院建設の募金活動や日本におけるアメリカンフットボールの普及など、数多くの社会活動に従事することとなる。  BSAの本部と指導者訓練キャンプ場を建設する土地を探していたポールは、晩秋の霧が深い日、初めて清里を訪れた。美し森に登り振り向くと、霧が晴れ、美しい富士山が姿を現した。その瞬間、「この地だ」と確信したという。1938(昭和13)年、多くの人々の支援を受け、訓練キャンプ場が完成。清里村と大泉村(どちらも現・北杜市)から1字ずつ取って、「清泉寮」と名付けられた。 日本が太平洋戦争へと突き進み、米国人宣教師が次々と離日する中、ポールは日本に残り、日本人に寄り添い続けた。真珠湾攻撃の翌日に拘束されやむなく帰米した後も、配属された陸軍情報部日本語学校で日系人を助けるために尽力したという。 1945(昭和20)年、いち早く日本に戻るためGHQの将校となり、再来日を果たした。「日本の復興には、国土の大部分を占める山間部の開拓と農村の復興が先決である」。そう考えたポールは、清泉寮を拠点に八ヶ岳山麓の開拓モデルとなる「農村センター」の建設構想を抱き、実現のため奔走することとなった。 新しい農村コミュニティーの建設を通して、キリスト教に基づく民主主義を日本に普及・定着させようと考えたポール。「食糧」「保健」「信仰」そして「青年への希望」という4つの理想を農村センター設立に掲げ、100万通ともいわれる手紙をアメリカへ送り募金を呼び掛けた。これが人々の心を動かし、多くの寄付が集まり、1948(昭和23)年に清里聖アンデレ教会が完成。翌年には、高冷地実験農場事業が始まった。 アメリカからは、資金だけでなく高冷地での生育に適したジャージー牛や、当時日本では珍しかったトラクターなど、物的な援助も寄せられた。それらに支えられ、ポールは清里で最先端の農業を実践し、日本人が自活するためのモデル農村を創り上げていったのだった。 1979(昭和54)年12月12日、入院先の聖路加国際病院で82歳の生涯を閉じたポール。彼が創設したキープ協会は、現在も彼の理想と精神を継承し清泉寮を拠点として、社会文化の向上と世界平和への寄与を目的に活動を続けている。19自分に信頼を寄せる学生の姿に、進むべき道を見いだす指導者訓練施設として清里に「清泉寮」を建設日本の復興のため、八ヶ岳に農村センターを設立ポール・ラッシュ記念館公益財団法人キープ協会北杜市高根町清里3545 TEL 0551-48-5330ふれあい〈取材協力〉ポール・ラッシュ記念館 〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦未来を切り拓いた郷土の誇りひ ら「敵国人」となっても日本人に寄り添い続けるポール・ラッシュが晩年暮らしていた建物を公開し、彼の遺品と、さまざまな歴史的資料を展示している。「日本アメリカンフットボールの殿堂」を併設。

元のページ  ../index.html#19

このブックを見る