ふれあい特集号vol.40(デジタルブック版)
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19〈取材協力〉地下鉄博物館  〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦 早川徳次は、1881(明治14)年、東八代郡御代咲村(現・笛吹市一宮町)に早川常富の四男として生まれた。山梨県中学校(現・甲府一高)から第六高等学校(現・岡山大学)に進むも、病気で中退。回復後、あらためて早稲田大学法学科に進んだ。 村長であった父と県議会議員を務めた長兄と同様に、自らも政治家を志し、在学中に後藤新平の書生となり27歳で大学を卒業すると同時に、後藤が総裁を務める南満州鉄道(満鉄)に入社。ここで鉄道の重要性を認識し、一転、鉄道の世界で身を立てることを決意した。後藤が逓信大臣と鉄道院総裁を兼任したのを機に、自らも満鉄を辞し、後藤の紹介で鉄道院中部鉄道管理局に入局。鉄道の全てを知りたいと自ら申し出て、新橋駅で改札係や手荷物係など現場の仕事に携わった。 こうした徳次の姿に才気を見出した同郷の先輩・根津嘉一郎は、1909(明治42)年、自らが社長を務める東武鉄道に彼を招くと、1911(明治44)年には佐野鉄道、翌年には大阪の高野登山鉄道の立て直しを任せた。徳次は期待に応え、両鉄道を見事に再建。鉄道経営の手腕を発揮した。 1914(大正3)年、「鉄道と港湾との関係」を研究するため、欧米視察に出た徳次を待っていたのは、ロンドンでの地下鉄との運命的な出合いであった。当時、東京の交通を一手に引き受けていた東京市営電車は「東京名物満員電車」と揶揄されるほどの混雑。この時、徳次は都市交通の未来は地下鉄にあると確信したのであった。  2年後に帰国した徳次は、「昔、海であった東京は地盤が軟弱で地下鉄建設は無理」と口をそろえる専門家を相手に、その実現の可能性を実証するため、地質や湧水量を調査。その結果、軟弱な地層の下に強固な地層があることが判明する。 地下鉄計画に賛同した財界の大御所・渋沢栄一らの援助を受けて創設した東京軽便地下鉄道株式会社に1919(大正8)年、地下鉄営業免許が下りると、翌年社名を「東京地下鉄道株式会社」と変更し、常務に就任した。関東大震災が襲ったため、上野〜浅草間2・2㌔の工事が始まったのは1925(大正14)年であった。その後、2年3カ月の歳月をかけ1927(昭和2)年12月30日、東洋初となる地下鉄が開業した。 順次路線延長を進めていった東京地下鉄道(株)にあって徳次は、安全第一を掲げて全鋼鉄製車両、ATS(自動列車停車装置)などの導入を進めると同時に、「社員読本」による社員教育にも力を入れた。多方面で類まれなる手腕を発揮した徳次を、社員は皆、心から慕ったという。1940(昭和15)年、社長に就任するも、東京横浜電鉄(後の東急)・五島慶太との経営権闘争に敗れる形で同年8月に社長の座を退いた。引退後、故郷・山梨へ戻り、後進の指導をすべく青年道場の建設に着手したが、1942(昭和17)年、志半ばで急逝する。享年61歳。甲府一高、早稲田大学を通じて後輩であった石橋湛山(後の第55代内閣総理大臣)は、弔辞で徳次の偉業を讃えている。 政治家を志して上京し鉄道の重要性に目覚める遺憾なく発揮された経営手腕地下鉄の建設に邁進まいみ  よ さき むら「東京メトロ」の礎を築く安全第一を考え、地下でも目立つ明るいレモンイエロー色を採用した日本最初の地下鉄車両1001号車(上)と早川徳次像(下)。いずれも地下鉄博物館(東京メトロ東西線葛西駅高架下)に展示開業当日の上野駅 乗車待ちの長蛇の列ができた『東京地下鉄道史』(昭和9年)よりやゆたた

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