ふれあい特集号vol.38(デジタルブック版)
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19〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦横浜で西洋医学を学び杉浦醫院を開業 杉浦健造は、1866(慶応2)年巨摩郡西条村(現・中巨摩郡昭和町)に、杉浦家六代目当主・大輔の次男として生まれた。大地主だった杉浦家は江戸時代初期から代々漢方医を営んでいたが、江戸末期に生まれた健造は西洋医学を志した。横浜で修業し医業開業免許状を得ると、生家に戻って杉浦醫院を開業。1891(明治24)年、25歳のことだった。 開業した健造の元には、連日60人を超える患者が訪れた。その多くは古くから甲府盆地で恐れられてきた「水腫脹満」と呼ばれる奇病を患っていた。体が痩せ細り、皮膚は黄色く変色、腹部に水がたまって大きく膨らみ動けなくなり、やがて死に至るという病気で、米作りを生業とする農民や、農家の子どもたち、さらには、馬や牛などの動物の体までもむしばんだ。 苦しむ人々を目の当たりにした健造は、原因究明に立ち上がった。膨大な私財を投じ、志を同じくする医師たちの中心的存在となり、共に研究を重ねた。そして、中巨摩郡田之岡村下高砂(現・南アルプス市)の小沢鹿十郎医師と共に、この病の病状を明らかにし、研究の先駆的な役割を果たした。 1904(明治37)年、中巨摩郡大鎌田村二日市場(現・甲府市大里町)の三神三朗医師と、岡山医学専門学校の教授・桂田富士郎医師が、病気の原因が新種の寄生虫にあることを発見・実証し、寄生虫は「日本住血吸虫」と命名された。その後、日本住血吸虫は皮膚から侵入するということが分かった。1913(大正2)年夏には、この寄生虫の中間宿主が後にミヤイリガイと呼ばれる小さな巻貝であることを、九州帝国大学の教授・宮入慶之助が発見する。 病気の実態が解明されると、健造は中間宿主を撲滅することでこの病を根絶しようと、ミヤイリガイをエサにするアヒルやホタルの幼虫などを飼育して田んぼや池に放ち、天敵による駆除を試みた。こうした活動は、やがて官民一体となっての感染予防啓発やミヤイリガイの駆除といった地方病撲滅運動へと発展したが、健造は1933(昭和8)年、志半ばにして67年の生涯を終えた。 健造の情熱は、杉浦醫院の跡継ぎである三郎に受け継がれる。三郎もまた、ミヤイリガイの研究や治療法の検討など、地方病撲滅に尽力した。1949(昭和24)年には、同年創設された山梨県医学研究所の初代地方病部長に就任し、戦後の地方病撲滅運動に大きな役割を果たした。 1996(平成8)年2月19日、山梨県は地方病の「流行終息宣言」を出すに至り、これをもって「地方病撲滅の闘い」は幕を閉じた。まさに、杉浦親子をはじめとする多くの医師やこの病に苦しめられた地元住民の、長年の努力がもたらした勝利であった。地方病に苦しむ人々を救うために受け継がれる情熱そして終息宣言へ昭和22年10月 山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察。中巨摩郡玉幡村(現・甲斐市)にて杉浦三郎による案内の様子。すいしゅちょうまん中巨摩郡昭和町西条新田850-1 TEL 055-275-1400杉浦醫院木造2階建ての杉浦醫院(医院)は、約3300平方メートルの敷地に大正から昭和にかけて建てられた。現在は、地域文化の発信拠点として、杉浦父子が治療と研究を続けた医院と庭園を公開している。(国登録有形文化財)昭和町 風土伝承館杉浦醫院にある地方病流行終息の碑

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