ふれあい特集号vol.37(デジタルブック版)
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19〈記事監修〉山梨大学 名誉教授 齋藤康彦 若尾逸平は、1820(文政3)年巨摩郡在家塚村(現・南アルプス市)に父・林右衛門、母・きのの次男として生まれた。若尾家は代々村役人を務め先祖をたどれば武田氏につながる名家であったが、林右衛門が隣村との長年の訴訟を収めるために私財を投じたことから生活は困窮していった。 1837(天保8)年、18歳になった逸平は、幼い頃からの夢だった剣客を志し江戸に出る。しかし、泰平の世となっていた城下では剣術の修行もままならず、その後、自らの生きる道を商売に見いだすようになった。22歳の時一荷一駄のモモを持ち信州を目指したが途中で腐り大赤字となった。しかし生来の負けず嫌い。悔しさから、商いへの情熱はかえって強固となり、次はタバコを仕入れて各地で地道に売り歩いた。その後、天秤棒の両側にどっさりと産物を積み甲州と武州を往来すること5年、150両以上を蓄えて、ひとかどの商人となった。 正直さと真面目さで次々と信用を得た逸平は、確実に商売を大きくしていった。1857(安政4)年には、生涯の伴侶となるはつと結婚した。 1859(安政6)年、横浜港が開かれると、逸平はいち早く外国人と甲州生糸の交易を試みた。横浜での交易が軌道に乗り始めた頃のこと。取引先の商館で、主人と出入りの商人がきらりと光るかけら(水晶)をやりとりする様子を見かけた弟・幾造が、取って返して逸平に報告。早速、二人で御嶽村(現・甲府市)の職人から水晶くずを仕入れると肩に食い込む天秤棒を担ぎ、中一日で横浜へ戻って売り込んだ。逸平は、水晶交易でも利益を得、巨万の富を築いていった。その後、甲府山田町で幾造と共に若尾機械で生糸の製造を始めた。 逸平は、明治に入ると鉄道事業と電力事業の成長性を先見し、積極的な投資活動を展開。東京の動脈となるインフラ事業を支えるなど中央財界にも影響を与え、甲州財閥としてその名を轟かせていった。また、1889(明治22)年には初代甲府市長、1890(明治23)年には貴族院議員に選出されるなど政界にも進出していった。 一方、1873(明治6)年、琢美学校(現・善誘館小学校)の新築資金として1500円を寄付したり、1899(明治32)年には釡無川に開国橋を架けるなど生涯を通じて郷土発展のために出資を惜しむことはなかった。 常に敏感に情報を集め、そこから相手の欲するものを予測し、真っ向から交渉をする。失敗を糧に、チャンスと見れば、全勢力を注ぐ。その姿は、多くの後進に多大な影響を与えていった。 日本を代表する実業家となった逸平は、1913(大正2)年、92歳で生涯を閉じた。天秤棒から始まった商い生糸・水晶貿易で巨万の富を築く甲州財閥の総帥となる甲府・愛宕山南山腹に米寿を祝って銅像が建てられ、戦前まで市民の憩いの場となった。(この写真は若尾銀行解散記念の際に撮影されたもの)ざい け づかみ たけ笛吹市御坂町成田1501-1 TEL 055-261-2631県立博物館甲州財閥コーナー「巨富を動かす」(常設展内)新たな時代の先を見て、甲州から飛び出した巨人たち。時に団結し、地盤と人脈を基に事業を拡大。中央の経済界にも大きな影響力を及ぼした甲州財閥の軌跡をじっくりご覧ください。よう だ

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