ふれあい特集号vol.36(デジタルブック版)
21/24

21〈記事監修〉山梨大学 教育人間科学部教授 齋藤康彦『少年行』が一等入選文壇デビューを飾る 中村星湖は1884(明治17)年、南都留郡河口村(現・富士河口湖町)に、父・栄次郎、母・ための長男として生まれた。本名は將爲。中村家は代々、富士講の御師。学問に熱心だった父母の影響で、星湖も早くから文学に親しんだ。地元の河口尋常高等小学校を卒業後は山梨県尋常中学校(現・甲府一高)に入学。雑誌・中学世界や中学文壇などへ文章や漢詩を投稿し、発表した。 1904(明治37)年、早稲田大学文学科に進んだ星湖は、坪内逍遙や島村抱月など自然主義文学の先駆者に師事しながら、旺盛な執筆活動を続ける。1906(明治39)年には雑誌・新小説の懸賞で『盲巡礼』が一等入選。さらにその夏に執筆した、郷里・富士山麓の自然を舞台に2人の少年の友情と成長を描いた『少年行』が翌年、抱月や二葉亭四迷の絶賛を受け、早稲田文学・懸賞長編小説の一等に入選した。早稲田文学は当時、自然主義文学の拠点として明治文壇で大きな比重を占めていた。『少年行』で星湖は一躍文壇の注目を集めることとなった。 大学卒業後は早稲田文学の記者となり書評などを担当する一方、『半生』『漂泊』『女のなか』などの短編集を刊行。身近な事象に基づく作品を発表し、星湖文学を確立していった。 明治末期から大正になるとヨーロッパ文学を中心に翻訳も行い、1916(大正5)年にはフローベール作『ボヴァリー夫人』を翻訳刊行した。 40歳を過ぎると、星湖の心は郷土へと向いていく。1926(大正15)年に山梨日日新聞・文芸欄の小説の選者となり、また前田晁らと山梨県文化人の懇談会・山人会を発足。以後、郷土文化の振興に努め、1940(昭和15)年には富士五湖地方文化協会を結成し、機関誌・五湖文化を編集した。 1945(昭和20)年、戦火を避けて郷里の河口村に疎開。以後約30年間、村の教育委員長を務めたほか、村の人を集めては俳句を指導したり、県下の小中学校の校歌の作詞も多数手掛けるなど、積極的に地域文化の発展に尽力した。また、1951(昭和26)年からは山梨学院短期大学で教授を務め、1956(昭和31)年には県文化功労賞を受賞。その際「今後も老骨を地方文化の振興に役立てていきたい」と語ったという。 郷土に多くの文化の足跡を残した星湖は、1974(昭和49)年4月13日、90歳で生涯を閉じた。1987(昭和62)年に山梨の文化振興を目的に中村星湖文学賞が制定され、その精神は今もしっかりと息づいている。短編で星湖文学を確立『ボヴァリー夫人』の翻訳も郷土の文化と深く向き合い地域文化の振興に尽力茅ヶ崎の南湖院に国木田独歩を見舞う。前列中央が中村星湖。その後ろが国木田独歩、写真左端が前田晁、同列右端が田山花袋。星湖の左上が正宗白鳥若き日の中村星湖お しつぼうちしょうようしまむらほうげつふたばていし めい甲府市貢川1-5-35 TEL 055-235-8080県立文学館中村星湖コーナー(常設展内)世界文化遺産登録を目指す富士山。その麓で生まれ育った星湖。『少年行』などの作品からは富士山の魅力が素直に伝わってきます。文学者・星湖の足跡は県立文学館・常設展で見ることができます。まさためあきら

元のページ  ../index.html#21

このブックを見る