ふれあい特集号vol.35(デジタルブック版)
11/24

11〈記事監修〉山梨大学 教育人間科学部教授 齋藤康彦検索十一屋コレクション持って生まれた画家としての才能 野口小蘋は、1847(弘化4)年、大坂の難波に漢方医・松邨春岱の長女として生まれた。幼少の頃から、詩書画に親しみ、山水でも人物でも見事に模写をするほど、その才能を発揮していた。 8歳の時から四条派の角鹿東山に絵の手ほどきを受けた小蘋は「玉山」と名乗り、後に父母と共に北陸を遊歴し席画風の作品を制作している。1865(慶応元)年、19歳になると、京都に居を構えていた関西南画壇の重鎮・日根対山に師事。「小蘋」と号し、人物画をはじめ山水画・花鳥画などを描き続けた。 1871(明治4)年、25歳になった小蘋は、東京で本格的に画業に従事。この頃になると、画技に驚くほどの上達が見られ、1873(明治6)年には、皇后陛下御寝殿に花卉図8点を描くまでとなる。 小蘋が甲府を訪れたのは、1875(明治8)年。甲府の豪商・大木家に寄宿しながら、絵を描き続けていた。そんな縁もあり1877(明治10)年、小蘋は31歳で大木家と親交の深い野口家の長男・正章と結婚する。野口家は、近江商人の家柄で近江国蒲生郡蒲生町(現・滋賀県東近江市)に本家を置く酒造業「十一屋」を営み江戸時代中期に甲府柳町(現・甲府市中央四丁目)に営業所と醸造工場を設け繁盛していた。小蘋は、「十一屋」の商標図案や贈答物の絵付けを手掛けるなど、商売にも携わっていった。しかし、夫・正章が新しく手掛けたビール醸造業に失敗し、家督相続権を喪失。小蘋は一家で上京することとなる。 上京後、小蘋は、精力的に各種展覧会へ出品。中でも日本美術協会展では毎年のように受賞を重ね、東京画壇を代表する南画家としての地位を揺るぎないものとしていった。 また、1889(明治22)年には、華族女学校(現・学習院女子中・高等科)の画学嘱託教授を命じられ、南画を教えることとなる。1904(明治37)年58歳の時には、日本を代表する美術家の象徴である帝室技芸員に女性で初めて任命され、皇族への御用品制作に頻繁に携わるなど多忙な日々を送るようになっていった。晩年には、大正天皇即位式の御大典奉祝画屏風として「悠紀地方風俗歌屏風」を献上する栄誉を授かり、その作品は、近代日本風景画の代表作として位置づけられるとともに、小蘋の画業の集大成となった。 明治・大正期を代表する南画家として名をはせた小蘋は、1917(大正6)年、71歳で亡くなった。病の床に伏せてからも、周りが止めるのも聞かず、筆を握り続けたという小蘋。生涯貫いた画への真っすぐな思いは、最後まで揺らぐことがなかった。酒造業「十一屋」野口家に嫁ぎ甲府に住む南画家として不動の地位を築くぎょくざん甲府市貢川1-4-27TEL 055-228-3322十一屋コレクションの名品展~野口柿邨をめぐる文人たち会期:12月15日(土)~2月11日(月・祝)県立美術館つ ぬ が とうざんひ ねか  きし  そん《甲州御嶽図》明治26年(八百竹美術品店蔵)小蘋山水画の代表作。甲府を離れた後も、たびたび昇仙峡に足を運んで描いたものと思われる《西王母図》明治23年西王母とは、中国で古くから信仰された女仙。小蘋の美人画の中でも代表的な作品まつ むら しゅんたい小蘋の義父である野口正忠(号・柿邨)は、幕末明治期の「十一屋」野口家の当主で、画家の日根対山、富岡鉄斎ら多くの文人たちと交流があった文化人。このたび、県立美術館が十一屋コレクションの一括寄託を受けるにあたり、野口小蘋や富岡鉄斎をはじめ、代々大切に受け継がれてきた名品を紹介します。●休館日 12月28日(金)~1月1日(火)     月曜日(祝日の場合は翌日)     ※12月25日(火)は開館●観覧料 一般1,000円 高校・大学生500円      小・中学生260円 たい ざんせいおうぼこうしゅうみたけ

元のページ  ../index.html#11

このブックを見る