ふれあい特集号vol.34(デジタルブック版)
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17県立文学館村岡花子コーナー(常設展内) 『赤毛のアン』の原稿も展示。 閲覧室では『赤毛のアン』のシリーズを手に とって読むことができます。〈記事監修〉山梨大学 教育人間科学部教授 齋藤康彦生まれ故郷、山梨英和女学校の若き教師に 村岡花子(本名・はな)は、1893(明治26)年、甲府市に安中逸平・てつの長女として生まれた。父親が熱心なクリスチャンで、花子も2歳の時にキリスト教の洗礼を受けている。 小学校入学前に東京に転居。小学校卒業後は、東洋英和女学校に進学。カナダ人宣教師から英語や西洋の生活習慣を学び、英米の文学を寝る間も惜しみ読んだ。この学校の寄宿舎で過ごした10年余りの日々が、後に花子が作家・翻訳家となる礎を築いたのであった。また短歌の師・佐佐木信綱やアイルランド文学翻訳家の松村みね子ら、優れた師や先輩と出会ったのもこの頃であった。同高等科を卒業した花子は、1914(大正3)年、山梨英和女学校の英語教師として再び甲府の地を踏むことになる。 当時すでに友人と共に歌集を出したり、人気の少女雑誌に投稿していた花子は生徒たちの憧れであり良き教師であった。教師をしていたのはわずか数年だったが、後に花子がこの時期を「青春」と呼んでいるように、甲府は花子にとってまさしく故郷となったのである。 婦人と子ども向けの本の編集をするため東京に戻った花子は、仕事で知り合った村岡儆三と結婚。平安な家庭の中で少女時代からの夢であった文筆家として着実な活躍を始めたが、6歳を目前にした長男の道雄を疫痢で失ってから悲嘆に暮れることとなる。そんな花子が立ち直るきっかけとなったのが、先輩・松村みね子が紹介したマーク・トウェーンの『王子と乞食』。原書を読み終えた花子は、日本中の子どもたちの健やかな成長を願って、外国の家庭文学を翻訳し紹介していこうと心に決めた。この本は、1927(昭和2)年に出版され、花子の出世作となった。 太平洋戦争による日・加の関係悪化により帰国することとなった友人のカナダ人宣教師・ロレッタ・ショーからプレゼントされたのが、ルーシー・モード・モンゴメリの名作『赤毛のアン』(原作『ANNE OF GREEN GABLES』)。花子が夢中になったこの本には女学校時代に学んだ価値観・感性・文化があふれていた。 花子は、カナダ人宣教師たちへの感謝と友情の証しとして、戦時下でもひたすら翻訳を続けた。翻訳を終えたのは戦争が終わる頃。出版にこぎ着けたのは、本を手にしてから13年が過ぎた1952(昭和27)年5月、花子59歳のときであった。『赤毛のアン』では孤児院から引きとられた主人公アン・シャーリーの11歳から16歳までの成長が、カナダの美しい自然とともに生き生きと描かれ、多くの日本人読者に夢と希望を与えた。 花子は『生きるということ』という随筆の中で次のように書いている。「自分自身が勇気をもって、生きてゆくだけでなく、自分のまわりの悲しんでいる人、苦しんでいる人たちをなぐさめ、はげまして、共に明るく、生きてゆくということは、とてもだいじなことだと思うのです」。75歳で亡くなるまで、この思いは、花子の作品全ての根底に流れている。帰国する友人から贈られた 一冊の本『赤毛のアン』初版の年、良い本を子どもたちに読んでもらおうと自宅を開放。亡き長男の名前をとって「道雄文庫」とした赤毛のアン記念館・村岡花子文庫(東京・大森)に再現されている花子の仕事机 PHOTO:○K.HORIUCHICけいぞうえき りあんなかぺいいっのぶ つな甲府市貢川1-5-35TEL 055-235-8080

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