ふれあい特集号vol.32(デジタルブック版)
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 弘化3(1846)年、山梨郡牛奥村(現在の甲州市塩山牛奥)の農家の次男として生まれた敬次郎は、14歳から商人を志して行商生活に入った。 明治5(1872)年、開港後の横浜に移り、洋銀相場や生糸、蚕卵紙などの取引で富を築き、明治9(1876)年には欧米へ渡航。先進資本主義諸国でさまざまな文明文化の知識を得て、帰国後は大いに時代を先取るようになる。 明治20年代に入ると、富国強兵、殖産興業を図るには、交通機関の発達と製鉄事業の興起を中央線の基礎となる山梨鉄道を発案計画やまなしの偉人たち第8話雨宮 敬次郎1846 1911近代国家・日本の  創造を目指した起業家あめみやけいじろう図らなければならぬと、鉄道と製鉄の経営に重点を置く。 明治21(1888)年には、中央線の前身となる甲武鉄道の取締役に就任。甲武鉄道は新宿―八王子間の運行を予定していたため、甲州の人々が恩沢を受けることができないとして、八王子―甲府間の鉄道敷設を目的にした山梨鉄道の設立を計画し自ら測量して鉄道局に建設を願い出た。 山梨鉄道の建設は実現しなかったが、明治25(1892)年に国による中央線の鉄道建設が決定。常に時代の先を見据え社会事業の興起に尽力中央線敬次郎の生家近くから見る中央線と特急あずさ 明治の文明開化の中で常に時代の先を読み、鉄道や製鉄の興業に手腕を振るった雨宮敬次郎。起業家であり国の発展のために社会的事業に取り組んだ人でもあった。

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