ふれあい特集号vol.31(デジタルブック版)
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しょうこついこういちろ  古希を過ぎてから、春江の作品は輝きを一層増し、鮮やかな色彩や金箔などが施されるようになった。しかし、春江は「実物を写すだけでは実物に劣る絵しか描けないことになる。自分の心を通して描いてこそ絵に光が増す」。この言葉をいつも胸におき、日本の美を描き続けた。 昭和53(1978)年11月の山梨県立美術館オープンに先立ち、春江の作品20点が寄贈されることとなった。春江は、完成間近の県立美術館を訪れ、「この美術館は日本一だ」と言い、自分の作品が飾られることを心から喜んでいたという。 昭和54(1979)年2月13日、病院のベットの上で「描くんだ、描くんだ」という言葉を最後に画家 春江は、85歳の生涯を閉じた。〈記事監修〉山梨大学 教育人間科学部教授 齋藤康彦県立美術館望月春江の作品甲府市貢川1-4-27TEL055-228-3322山梨県立美術館検 索常設展示室では、望月春江や穴山勝堂、近藤浩一路など山梨県ゆかりの画家を中心に、日本画を展示。四季を表現した日本画の世界を堪能することができる続特選を受賞。日本画家として不動の地位を築くようになる。 昭和12(1937)年、春江は、画家 近藤浩一路らと山梨美術協会を設立。翌年には、東京で活躍する画家 川崎小虎らと日本画院を結成した。当時、春江たちは日本画壇全般をリードしていこうという志を持ち、毎晩のように集まっていた。そこには、「若い人達に発表の場を与えたい」「あらゆる流派会派を超越し、後進を育てていきたい」という熱い思いがあった。  昭和23(1948)年、東京芸術大学の近くに終の住み家を定めた春江は、旧態依然とした作品が多い日本画の現状を見て「これからの日本画は新しくないといけない」と言い、油彩画の展覧会を熱心に見て回り、洋画家とも交流を深めていった。明日の日本画の創造のために邁進した日々心を通して描き続けた日本の美の世界自宅の庭で、ユリの花をじっと見つめる春江。スケッチは、納得するまで何枚も描いていた入退院を繰り返していた84歳の時に描き上げた作品。制作の傍らでは、いつも芳子夫人が見守っていた。この作品はコラニー文化ホール 大ホールの緞帳(どんちょう)にもなっている《惜春》(1978年)(山梨県立美術館蔵)描かれている「まるい丘」は、幼い頃から慣れ親しんだ郷里、甲府市増坪の風景と重なっている。「春」を描くことが好きな春江は、色鮮やかな山梨の春を思い描いていた《春に生きんとす》(1921年)石和で出会った見事なヒマワリに魅せられ、描いた作品。東京都美術館に飾られた作品を前に、春江は、「満足だ」と言っていたという最後の作品となった《向日葵》(1978年)(山梨県立美術館蔵)15

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