vol.25(平成22年7月1日発行)
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 昭和32(1957)年春、70歳で早稲田大学教授を定年退職した内藤多仲のもとに、驚くような設計依頼が舞い込んだ。エッフェル塔の324mを凌ぐ、世界一高い電波塔の設計であった。 その頃、すでに内藤は〝塔博士〞と呼ばれるほど数多くの鉄塔の設計を手がけていた。大正14(1925)年に、愛宕山放送局の鉄塔(2基、45m)を設計したのを皮切りに、約60基のラジオ塔を設計。昭和29(1954)年には、設計を手がけた、わが国初のテレビ塔である名古屋テレビ塔(180m)が竣工した。しかし、新たに依頼された電波塔は、名古屋テレビ塔を150m以上も上回る高さだった。 日本で高い塔を建てる際、最も問題となるのが台風と地震である。内藤自身、東京タワーの設計に当たり「この大工事が不可能とは思わなかったが、ご承知のように日本は世界のどこの国よりも条件が悪い、それだけに独特の構造を考えなければならなかった」と振り返っている。 風は最上部で毎秒90mの風速(当時の最大瞬間風速は室戸台風の60m)に耐えられるように、また地震に対しては、関東大震災の2倍の規模の地震にも耐えられるように設計した。こうした設計上の工夫を施しながらも、使用する鉄材はエッフェル塔の半分以下に抑えた。「耐震構造の父」と呼ばれる内藤の面目躍如といえる。 当時はまだ計算機のない時代。内藤は計算尺だけを頼りに、構造計算に数カ月を費やし、作成した設計図は数千から1万枚に及んだともいわれている。すべての工事が完了した時に「今まで肩にのしかかっていた重荷がほぐれたような安らぎの気持ちで、しばし瞑目して感激にひたった」と後に語っている。 大正から昭和にかけて、数多くの建築物の構造設計を手がけてきた内藤だが、今もなお多くの人々に愛される東京タワーは、彼にとっても生涯のモニュメントとなった。半分の鉄材で台風や地震に耐える60以上もの鉄塔を設計した〝塔博士〞内藤多仲ゆかりの地櫛形中学校 (南アルプス市小笠原)南アルプス市立櫛形中学校の正門前に、地元出身の内藤の胸像がある。昭和39(1964)年、 旧櫛形町の町制10周年を記念して建てられた。同校の校訓は内藤の言葉「高登彼岸」(志を高く持ち、理想の境地に至る)である。明治19(1886)年…中巨摩郡榊村(現・南アルプス市)曲輪田(くるわだ)の農家に生まれる。地元の尋常高等小学校、県立山梨県第一中学校(在学中に山梨県中学校から改称、現・甲府第一高校)、東京の第一高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)に進学。明治43(1910)年…同大学建築学科卒業。大学院に進み耐震構造を研究。明治45(1912)年…早稲田大学教授となる。内藤が考案した“耐震壁理論”は、関東大震災でその有効性が実証され、その後の耐震構造設計の指針となった。昭和45(1970)年…84歳で永眠。プロフィール山梨県中学校 (甲府市)明治32~37(1899~1904)年に内藤が通った山梨県中学校(在学中に県立山梨県第一中学校へ改称、現・甲府第一高校)。当時は山梨県の最高学府で5年制だった。内藤は後に旧体育館の設計を手がけた。円宝寺 [本堂] (南アルプス市曲輪田)生家近くにある内藤家の菩提寺。山梨県中学校に進学して間もなく、母親を亡くした内藤は、帰郷のたびに墓参した。鉄筋コンクリートでできた現在の本堂(写真)は内藤の設計・施工によるもので、昭和37(1962)年に内藤が寄進した。ふれあい15〈記事監修〉山梨大学 教育人間科学部教授 齋藤康彦

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