荒ぶる山と美の源泉信仰のめばえ信仰の大衆化水の霊場巡り山頂へ至る道312345金鳥居御師まち世界遺産インフォメーションセンター小御嶽神社社務所西念寺吉祥寺根神社御師堀端屋御師大国屋御師中雁丸御師旧外川家住宅身禄堂御師大注連御師上文司上吉田コミュニニティセンター御師浅間坊富士山駅金鳥居公園富士吉田観光案内所大塚丘北口本宮冨士浅間神社御師大弊司御師大雁丸御師毘沙門屋誕 生遥 拝富士講巡 拝登 拝富士講きゅう と がわ け じゅうたく御神前の間17 富士山の各登山口に形成されていた宿坊街「御師町」のなかでも「吉田口」は江戸時代に最も多くの登拝者を集め、北口と呼ばれ親しまれていた。上吉田の町の中心にある金鳥居から、富士山に向かって真っすぐ伸びる町並みには、400年以上も昔に整然と“敷き割り”された町の形状の跡がそのまま残されている。江戸時代の富士講の歴史を今に伝える「御師の家」 表通りから奥まった「御師の家」へと通じる細長い「タツミチ」が、神社の参道のようにも見える。これは古い“本御師の家”の特徴で、旧外川家は250年の歴史をもつ。さらに中門をくぐると、玄関前に「ヤーナ川」という小川が流れている。往時には、富士山を目指し旅してきた道者が、まずここで禊をした。 ここ上吉田の御師町には最盛期86軒の御師の家が連なり、町の入口に立つ「金鳥居」から先は、すでに富士山の神聖な信仰世界とされていた。富士山の麓の聖地がどのように機能していたか、その御師の歴史と、当時の富士山信仰の豊かな世界観を旧外川家は今に伝えている。 江戸時代に庶民の間で爆発的に広まった「富士講」の隆盛の影には、「御師」の発展存在が大きかったという。御師の家は一般の住宅でありながら、富士山の登拝シーズンには、富士講の道者(登拝者)のための宿坊として、食事・祈祷・案内など一切の世話をした。またオフシーズンには布教にも出向き、富士講の富士山信仰を支えていた。 もうひとつ、御師の家の最も大きな特徴として、「御神前の間」がある。ここに神殿が置かれ、富士山の神様が祀られている。さらに外川家では、富士山信仰を庶民に浸透させた「食行身禄」の像が並んでいる。身禄は、貧しい一般の家の出でありながら信仰を深め、正直さや慈悲、勤労、和合といった日々の心がけが幸福と世直しに通じると説き、庶民による富士講の中興の祖として敬われることになった。 古代には畏怖の対象であった富士山は、人々に身近な祈りのシンボルへ。歴史ある御師の家には、平安で平等な世を富士山に託した庶民の想いがつまっている。 鳥居は俗界と神域の境界を示すもので、吉田の御師町の入口にたつ金鳥居は、“一ノ鳥居”とも呼ばれ、ここから先、富士山頂まで幾つも設けられている鳥居の一番目にあたる。同時にここは、江戸方面から富士山を目指す道者たちが遠路はるばる旅してきた「富士みち」の終着点。いよいよ、ここより神聖な富士山の信仰世界。信仰の大衆化/富士吉田エリア構成資産旧外川家住宅
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