荒ぶる山と美の源泉信仰のめばえ信仰の大衆化水の霊場巡り山頂へ至る道12345本宮本殿里宮 富士山は「女神」というのは、昔から変わらず伝えられてきたが、その呼び名は、時代とともに変わっている。まず平安時代には火山の神「浅間大神」。修験道の時代に入ると「大日如来」、鎌倉時代には「浅間大菩薩」として神仏習合の山になる。近世に入り、古事記と日本書紀に登場する「木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)」が富士山の神さまになる。 コノハナサクヤヒメの父は日本の山を統べるオオヤマツミ、夫はアマテラスの孫のニニギ。神話のなかでサクヤヒメは火の中で子を産み落とし、このため火を鎮める力のある女神として、日本一の霊山の富士山を譲られた。古くは、有名な「竹取物語」の「かぐや姫」の伝説の中にも富士山の仙女と語られているものがある。誕 生遥 拝富士講巡 拝登 拝ふ じ お むろ せん げん じん じゃ二合目には苔むした石碑群や、風雪に富士山信仰を支えてきた拝殿が今も残っている。西暦958年、参拝や祭儀の便宜のため富士河口湖町勝山の地に建立された。里宮の本殿も、富士山を正面に仰いでいる。修験道、富士講、産土神と富士山信仰の変遷を記憶する湖畔の古社13移築された本殿は、1612年に徳川家の家臣・鳥居成次により再建され、桃山時代の特徴を残すもの。国指定の重要文化財。お札に描かれた木花開耶姫命富士山の神仏構成資産 河口湖の南岸の勝山の地にある「里宮」に対して、「本宮」は、富士山中の「吉田口登山道」の二合目地点にある。富士山中では最も古く建立された神社として伝えられ、修験者が集う重要な聖地だったとみられる。 社殿をもうけない原初的な祈りの形で富士山が信仰されていたことを今に伝える重要な古社だ。 中世には富士山における修験道の、戦国時代には武将たちの祈願所として、また近世には「富士講」と結びついて発展してきた。富士山の厳しい自然災害をふまえ、本宮の本殿は、恒久保存のため、1974年に富士河口湖町勝山の里宮に移築された。聖地を守ってきたのは、河口浅間神社と同様、地元の変わらぬ信仰心であった。 現在、山中の社は「本宮」とされ、富士河口湖町勝山の“飛び地”になっていて、今も年に1回奥宮祭が行われている。この古社の歴史をかえりみれば、その時代ごとの富士山信仰の厚さと深さを感じることができる。冨士御室浅間神社
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