荒ぶる山と美の源泉信仰のめばえ信仰の大衆化水の霊場巡り山頂へ至る道12345河口御師母の白滝御坂峠乗馬姿の聖徳太子像 現実に富士山に人が登頂したのは、噴火がおさまってからで、まず富士山頂に大日寺を建立した「末代上人」、そして富士講の開祖の「角行」へと続き、富士山への登拝の道が開かれることになる。誕 生遥 拝富士講巡 拝登 拝11 富士山の噴火がおさまり、“遥拝”から“登拝”という形で富士山信仰が大衆に広がりはじめたころ、「河口浅間神社」を中心に、富士山信仰の聖地「御師町」が形成されていた。この「河口御師」の歴史は、江戸時代に富士講で隆盛する「吉田御師」より古く、最盛期には140軒の御師の家(宿坊)が軒を連ねる繁栄ぶりだったという。鉄道の開通により御師町の機能は失われたものの、富士山を望む静かな集落をそぞろ歩けば、往時の名残を発見することもできる。 その昔、甲府、長野方面から富士山を目指した巡礼者は、旧鎌倉街道(御坂路)にもあたる御坂峠から“天下第一”の富士を眺めたあと峠を下り、河口浅間神社に参拝するという巡礼コースを辿った。巡礼者が越えた旧御坂峠の東、昭和に入って新たに引かれ国道沿いの新御坂峠にある天下茶屋に逗留した太宰治は、名著『富嶽百景』に“富士には月見草がよくにあうふ”と詠んだ。 平安時代より富士山を目指す者は、この滝で身を清めたという。滝の脇には河口浅間神社の末社「母の白滝神社」があり、富士山の神さま「木花咲耶姫命」の姑神さま「栲幡千々姫命(タクハタチチヒメノミコト)」が祀られている。 今は誰にも開かれている山頂への道。もとは富士山は荒ぶる火の神として、人が近づくことを拒む時代が長かった。そんな異境の地の富士山頂に自由に行き来した人物が伝説の中にいた。平安時代に描かれた「聖徳太子絵伝」に、天高くそびえる富士山頂に向かい、黒駒にまたがり飛ぶ太子の姿が描かれている。俗にいう「黒駒太子伝説」では、太子が全国から集めた良馬の中から、甲斐の黒駒をひと目で神馬と見抜き、これにまたがって、富士山の上空を周遊し3日かけて戻ってきた詳細が物語られている。もうひとり、日本の修験道の開祖として7世紀に活躍した「役行者」もやはり、神通力で自由に飛ぶことができた。伊豆大島に流罪された時、昼間は島にとどまり、夜になると空を飛んで富士山へ行き修行したという。御坂峠から河口地区と富士山を望む天下茶屋付近からの眺め甲斐御坂越歌川(安藤)広重はじめて富士山に登ったのは…
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