あらまし2020
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11 元年(1868)官軍甲府入城。甲斐府を置く。2年(1869)甲斐府を廃し甲府県とする。4年(1871)甲府県を山梨県に改め、土肥実匡県令となる。6年(1873)大阪府参事藤村紫朗、山梨県権令となる(翌年県令となる)。9年(1876)県病院開院。10年(1877)初の県会議員選挙。第1回県会を太田町一蓮寺で開く。山梨県庁落成。22年(1889)市町村制施行。23年(1890)府県制公布。県に警察部を設置。24年(1891)県下に郡制を施行。本県に府県制を施行。27年(1894)甲府市西青沼に甲府測候所開設。30年(1897)甲府魚市場開業。32年(1899)県会議員選挙直接選挙制となる。開国橋開通。33年(1900)県立山梨県中学校を甲府城跡に新築移転。 甲府電力会社開業。35年(1902)山梨県高等女学校を寿町に開校。 中央線笹子隧道貫通、中央線大月駅まで開通。       (翌年韮崎駅まで開通)37年(1904)甲府城跡を開放して舞鶴公園とする。38年(1905)東京〜甲府間電話開通。42年(1909)県内各地で耕地整理着手。44年(1911)御料林を山梨県へ下賜の御沙汰書。 中央線新宿〜名古屋間全線開通。 元年(1912)県恩賜県有財産管理規則制定。5年(1916)県病院新築完成。9年(1920)恩賜記念の謝恩塔が舞鶴公園に完成。第1回国勢調査、県人口58万3453人。県下初の鉄筋コンクリート橋、笛吹川鵜飼橋竣工。12年(1923)富士川の鰍沢〜身延間に飛行艇(プロペラ船)就航。14年(1925)県営八ヶ岳牧場開設。 大 正 明 治歴史History丸山塚古墳 原始・古代 山梨県の大地に人々の営みが認められるのは、約3万年前からです。原始社会は、狩りや魚とり、木の実を採取する段階から、やがて米作りの段階へと進み、ムラが統合されてクニが形成されます。 4世紀末から大丸山古墳や銚子塚・丸山塚古墳が造られますが、このことから甲府市中道地区の曽根丘陵に大きな勢力が存在していたことがうかがえます。 8世紀の山梨は、甲斐国といい「山梨・八代・巨麻・都留」の4郡からなり、その中心は、国府・国衙の地名や国分寺があることから今の笛吹市の春日居町、御坂町、一宮町付近にあったといわれています。 12世紀に入ると、公家による古代国家の体制は揺らぎ、その中から台頭してきたのが武家でした。1131年ごろ、甲斐国には源みなもとの 義よしきよ清、清きよみつ光の親子が入り、甲かい斐源げんじ氏を興します。 中世・近世 甲斐源氏の諸氏のうち、武田氏や小笠原氏、南部氏などは後世まで繁栄します。16世紀の武田氏は、戦国大名として発展し、甲府につつじケ崎館や要害城を築き、ここを拠点に四隣経略を進め、天下統一を目指しました。 1582年、武田氏滅亡後の甲斐国は、織田・豊臣・徳川と支配が移り、江戸幕府の下で、甲府藩(国中)・谷村藩(郡内)が成立しますが、1724年には幕府直轄地となります。甲州街道や富士川舟運の発達は、物資の流通や文化の流入を促しました。 19世紀に入ると、幕藩体制の矛盾から各地に一揆が多発し、本県でも天保騒動が起こりました。このころ、日本は欧米諸国の圧力により鎖国を解き、近代国家への道を歩み始めることになります。 近代・現代 甲州は、明治元年(1868)3月に官軍が甲府城に入城した後、甲斐府から甲府県を経て、同4年11月20日に山梨県となります。(現在11月20日は「県民の日」) 明治前半は、藤村県令の勧業政策により、製糸業やぶどう酒醸造業が育成されます。後半には、中央線が開通し、産業や文化が進展します。本県の農家は、小作地率が高く、大正から昭和にかけて小作争議が多発しています。富士川舟運は、中央線の開通によって急激に衰退し、身延線の開通する昭和初期にはその歴史を閉じます。 昭和20年(1945)、終戦を迎え、戦後の農地改革によって自作農中心の体制となり、その後の農業経営は果樹への転換が著しくなります。高度経済成長期には本県でも商工業が発達しました。さらに、昭和57年(1982)の中央自動車道の全線開通後、物流が一気に増大し、ますます工業化が進みました。明治10年落成当時の山梨県庁

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