県勢ダイジェスト

沿       革


 本県において人類の生活の跡が認められるのは約3万年前からである。旧石器時代や縄文時代は食料採集社会であり、山麓、扇状地、河岸段丘などに集落が営まれた。約2,100年前になると稲作が伝わり、食料生産社会へと転換する。4世紀末頃、曽根丘陵に大きな墳墓(大丸山古墳、銚子塚古墳)が築かれるが、古代甲斐国がヤマト王権に組み入れられたことを示している。

 律令体制の甲斐国は、山梨・巨麻・八代・都留の4郡31郷から成っている。国府は春日居町国府(こう)にあり、平安時代には御坂町国衙(こくが)に移ったという。班田収授法により口分田を得た農民には、各種の税や兵役などの重い負担が課せられた。巨麻郡には官営の牧場である3御牧(穂坂(ほさか)牧・真衣野(まきの)牧・柏前(かしわさき)牧)が置かれ、毎年都へ馬を貢進した。平安時代は班田制も崩れ、土地制度は荘園制度が急展する。

 12世紀末は源義清・清光父子に始まる甲斐源氏が台頭し、一門の武田・小笠原・南部などの諸氏が活躍する。鎌倉、室町時代にわたって甲斐国の守護は武田氏が継承している。戦国期の永正16年(1519)武田信虎は躑躅ヶ崎館に入り、城下町を整備し、甲斐府中とした。信玄は治水事業(竜王信玄堤)、鉱山開発(黒川金山)、税制、度量衡の統一、甲州法度の制定などの富国強兵策を講じた。

 天正10年(1582)武田勝頼が滅ぶと甲斐国は、徳川から豊富を経て再び徳川の領有となる。甲府城主は徳川義直、忠長、綱重、綱豊と続き、宝永元年(1704)から柳沢吉保、吉里が20年間城主となる。享保9年から幕府領となり、甲府勤番支配と代官支配となる。石高は30万石余である。

 甲州街道は江戸と甲府を結ぶ政治、経済の動脈であった。商品作物が江戸へ送られる一方、勤番士や文人らの往来により江戸文化の流入がみられた。富士川水運は廻米輸送のほか、甲斐、信濃の各地から商品が運ばれ、甲信2州と駿州を結ぶ大動脈となった。

 大政奉還を経て明治元年(1868)となり、3月に甲府城明け渡しが行われ、甲斐府が設置された。翌年(1869)に甲斐府を廃し、甲府県となり、明治4年(1871)11月20日、甲府県を山梨県と改め現在に至っている。

 山梨という県名は、前述のように、かつて甲斐国に、山梨・八代・巨麻(のちに巨摩)・都留の4郡が置かれていたが、その政治・経済の中心となった山梨郡から発生したものである。この山梨郡の名称は、一帯の山をならして平地がつくられ、そこに発展した「やまならし」に、また、一説には、くだものの「ヤマナシ」(梨)がたくさんとれたことに由来しているともいわれている。

 なお、市町村の数は、現在7市37町20村となっている。



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