更新日:2018年7月6日

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西桂町の遺跡

0089宮の前遺跡の敷石住居

 

宮の前遺跡

宮の前遺跡のある西桂町下暮地地区は、南に霊峰富士山、西には奈良時代に修験道の祖と言われている役小角(役行者)により修験道場として開かれたと伝えられている三ツ峠がそびえており、縄文時代に限らず、さまざまな時代の遺跡が点在している地域です。宮の前遺跡は、昭和62年・平成13年・14年の3回に渡り発掘調査が行われています。中でも昭和62年の調査では、住居跡内からブリッジ部分にイノシシと思われるモチーフが付けられた釣手土器が出土したことで山梨県東部有数の遺跡として有名になりました。

遺跡からの眺め

宮の前遺跡からは南方面に壮大な富士山を望むことができます

釣手土器

宮の前遺跡出土の釣手土器(昭和62年調査)

所在地:南都留郡西桂町下暮地720-1

時代:縄文時代中期後半~後期

報告書:山梨県埋蔵文化財センター報告書第207集2003年3月宮の前遺跡

調査機関:山梨県埋蔵文化財センター

 

配石遺構の分布

宮の前遺跡のある桂川流域(相模川上流域)は敷石住居跡や配石遺構の多くみられる所でもあります。縄文時代中期後半以降、都留市牛石遺跡の直径50mにもおよぶ大環状配石遺構を代表とし、都留市の中谷遺跡、大月市の大月遺跡や塩瀬下原遺跡などの多くの祭祀的色合いのある遺跡が過去に調査され注目を浴びました。

今回紹介する宮の前遺跡の配石遺構のように石に代わって土器が据えられていた例は、山梨県内でも何例か見ることができます。まず、昭和63年に発掘調査された韮崎市後田遺跡があげられます。ここで検出された配石遺構は、8mほどの拡がりがあり、その中心に約4m四方の何も無い空間と北と南西方向に延びる二つの張り出しがあります。また、12個体もの縄文時代中期後半の宮の前遺跡より古い時代の埋設土器が確認されています。平面形は明らかに宮の前遺跡のものとは異なりますが、埋設土器が配置されるという類似点があります。

また、後田遺跡に近い形の例としては大月市塩瀬下原遺跡第14号配石遺構があります。こちらも、中心部にわずかではありますが空間と周囲に延びる張り出しを持っています。加えて3基の石棺墓も見つかっています。埋設土器は、宮の前遺跡と同じ後期初頭の土器が配置されていました。

 

大月市塩瀬下原遺跡の配石遺構

大月市塩瀬下原遺跡第14号配石遺構

韮崎市後田遺跡の配石遺構

韮崎市後田遺跡の配石遺構

宮の前遺跡の配石遺構

平成14年に宮の前遺跡で発掘調査された配石遺構は、調査区の外にまで拡がっているものでした。そのため全容は、はっきりしませんでしたが、現況では約1m×70cm範囲にコの字形に6個の石が並べられています。石材は、長辺では、おおよそ、20×25cmの大きさをそろえた平らな自然石を3個、短辺では約20×50cmのやはり平らな自然石を1石並べ、それぞれの辺をつなげています。抜け落ちていた石もありましたが、選び出された自然石を使ってコの字形を造り出していました。

この、配石遺構の大きな特色は、平らな自然石を選び平面的に配置したイメージを持つことと、縄文時代後期初頭の称名寺式の土器が近くに埋められているということです。ちなみに、配石遺構内から数点見つかっている土器片も同じ称名寺式でした。


 

埋設状態の土器と配石

宮の前遺跡出土の配石遺構(奥に埋設土器の丸い縁が見えます)

検出された埋設土器

配石遺構に伴って検出された埋設土器(縄文時代後期初頭称名寺式)

配石遺構の性格

さて、次に配石遺構の性格に目を向けてみたいと思います。配石遺構とは一般的には、お祭りごとの跡などと考えられています。その性格は、時代別に縄文時代早期に小さな石の火熱を利用して食物の調理をした施設、縄文時代中期後半から後期初頭に立石などを中心として造られた祭祀に係わる施設、縄文時代後晩期に土壙墓や石棺墓を伴って造られた先祖崇拝的な祭祀施設と三種類に時代別の性格分けができます。これに宮の前遺跡の配石遺構の特徴と照らし合わせてみると、埋設土器の年代が縄文時代後期初頭となることや近くから石棒が出土していることなどから、立石などを中心として造られた祭祀に係わる施設性格に近いと思われます。この事実は、桂川の流域に住んでいた縄文時代の人々の暮らしの一端を探る貴重なデータのひとつと言えるものでしょう。

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