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更新日:2010年5月18日
第三回 甲府城発掘展の開催報告

写真1 稲荷櫓1Fの様子

写真2 稲荷櫓2Fの様子
写真は、4月7日から16日まで開催した甲府城発掘展の開催状況です。第3回目となった今年は、江戸時代の甲府勤番支配(1724~幕末頃)をテーマに開催し、開催期間中には3700人ほどの来場者があり大盛況のうちに終わりました。
甲府城発掘展は、平成16年の春から5ヶ年計画で開催されています。毎年、信玄公まつりと同じ時期に開催していて、昨年までは県指定史跡甲府城跡(舞鶴城公園)内の恩賜林記念館が会場となっていましたが、今年は稲荷櫓(いなりやぐら)での開催となりました。稲荷櫓は、平成15年度に復元が完成した建造物で、江戸時代は武器などを管理する建物であったことが古文書などからわかります[写真3・4]。普段は無料で一般公開(月曜休館)されていますが、櫓内で展示会が開催されるのは初めてで、檜の香りがするなか歴史を体感するのに相応しい場所となりました。
展示は、歴史資料・出土品・パネルなど合計100点ほどで、築城期の金箔瓦(きんぱくがわら)や柳沢吉保の御殿のような華やかさはありませんが、新聞やメディアにも取り上げられ、勤番士の子孫の方が何人も来場されるなど過去最高の来場者数を数えて大盛況となりました。

写真3 稲荷曲輪 御櫓御蔵御道具員数帳 写真4 写真3の拡大
享保12年(1727) 【山梨県立博物館所蔵】
今年の展示会は、江戸時代の甲府勤番支配(こうふきんばんしはい)をテーマに開催しました。甲府勤番支配は、甲府城の警備や市中を治めるための幕府の旗本・御家人による幕府直轄の支配制度で、柳沢吉里が大和郡山(奈良県)に移封となった享保9年(1724年)から幕末頃までにあたります。
勤番士や勤番士のトップである支配役は、幕府に任命されました[パネル1]。甲府勤番に任命されると役職に応じた額の一時金が支給されましたが、江戸の屋敷は没収され石高に応じた屋敷を甲府城下で拝領したため、家族とともに甲斐に来ました[パネル2]。支給された金額から推測すると、引っ越しも経済的にはかなり大変だったようです。
支配役は2人で、甲府城南側の大手門(追手門ともいう)と北側の山手門から、「大手支配(追手支配)」・「山手支配」と呼ばれ、それぞれ勤番士100人・与力10人・同心50人を配下に、一月交代で業務をこなしていました。今回展示した「甲官便覧」(こうかんびんらん)には、弘化2年(1845)当時の支配役や勤番士の名が記されています[写真5]。
櫓の2階には、勤番士が任命を受けてから甲斐に来るまでの様子や日常の業務などがわかるようパネルを中心とした展示をおこないました。勤番士には、仕事上守らなければならないルールがいくつもありました[パネル3~6]。勤番士も、現在の私たちと同様に厳しい規則に従って仕事をしていたようです。

[パネル1勤番士の任命]

[パネル2勤番士、甲斐へゆく]
写真5 甲官便覧 弘化2年(1845)

[パネル3 勤番士の規則 その1]
1. 地震や火事の時はすぐに登城せよ!

[パネル4 勤番士の規則 その2]
2. 道楽しないで、仕事に励め!

[パネル5 勤番士の規則 その3]
3. 勤務交代の時に遅刻するな。城のものを勝手に持ち出すな!

[パネル6 勤番士の規則 その4]
4. 水を打つときは、柱や扉にかからないよう注意せよ
絵 大塚敦子
曲渕吉景(まがりぶちよしかげ)は、武田信玄・勝頼親子に仕えていた武将で、北杜市白州町にそのお墓があります。曲淵吉景から数えて五代目にあたる「曲淵景衡」(かげひら)は、甲府勤番支配の支配役として江戸から甲斐に着任します。その任期中、先祖への感謝をこめて中巨摩郡昭和町押越にある本妙寺(ほんみょうじ)に旗差物(はたさしもの)[写真6]を奉納しました。この本妙寺は吉景の誕生の地でもあり、お寺の脇には若宮八幡宮が現在でも残っています。
旗指物については、トピックスNo.49をご覧下さい。

写真6 旗指物 享保11年(1726)に奉納
【本妙寺所蔵 昭和町押越】
甲府城内には、年貢米を管理する御米蔵が鍛冶曲輪(かじくるわ)と清水曲輪(しみずくるわ)にありました。鍛冶曲輪は、舞鶴城公園南側のお堀に架かる遊亀橋を渡った目の前に広がる広場のあたり一体を指した名称です。一方の清水曲輪は、現在のJR甲府駅周辺にあたります。二ヶ所の御米蔵のうち、清水曲輪にあったものは、絵図から甲府勤番支配になってから新たに建てられた御米蔵であると考えられます。今回の展示資料にあった鍵[写真7]は御米蔵を管理するもので、米盆(こめぼん)と俵差し(たわらさし)[写真8]は年貢米の検品に使用されたものです。鍵が保管されていた木箱や米盆には、「清水御蔵方」とあることから、清水曲輪の御米蔵で使用されたものと考えられます。

写真7 鍵と木箱 文久2年(1862)
【山梨県中央銀行金融資料館所蔵】

写真8 米盆と俵差し 文久2年(1862)
【山梨県中央銀行金融資料館所蔵】
甲府城を中心とした近世の城下町のうち、おおよそ三の堀の内側までが「甲府城下町遺跡」として周知されています[図1]。展示資料[写真9]が出土した日向町第2地点(ひゅうがまち だい2ちてん)は、甲府駅北側にある山梨文化会館の北隣りで、柳沢吉保の甲斐入城(1704年)に伴い武家地として拡張された地域です。甲斐国が勤番支配下に置かれていた嘉永2年(1849年)に描かれた『懐宝甲府絵図』(かいほうこうふえず)には、「桜井」「北条」「久田」という性が記されています。
こうした歴史的背景から、日向町第2地点の発掘調査では、江戸時代を知る手がかりとなる多くの資料が確認されています。なかでも、徳利・お猪口(おちょこ)・煙管(きせる)といった品々は、江戸時代の人々もお酒やタバコを嗜んでいたことを物語っています。また、将棋の駒の「角」も見つかっていて、将棋に興じていたことも発掘調査によって明らかになりました。
なお、日向町第2地点の西隣部分は、昨年度から新しい学習拠点事業(県立図書館建設)に伴う発掘調査が実施されていて、本年の5月からは引き続き発掘調査をおこなう予定です。
昨年度調査については、トピックスNo.38をご覧ください。

図1 甲府城下町遺跡
日向町第2地点の位置

写真9 発掘出土資料(日向町第2地点)
甲府城発掘展では、展示会に合わせて展示テーマに沿った講演会を開いています。今回は、山梨県郷土研究会常任理事の飯田文彌氏による記念講演を「甲府勤番士と城下の暮らし」と題して、4月8日(土曜日)に恩賜林記念館2階講堂において開催しました[写真10]。甲府勤番士の城下での暮らしや勤番制がもたらした影響などをわかりやすくお話いただき、当日は午前中にも関わらず100 人を超える方々にお越しいただきました。
「甲府勤番士と城下の暮らし」講演当日資料(PDF:2,990KB)

写真10 講演会の様子
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