トップ > くらし・防災 > 文化芸術 > 文化財 > 県内の主な史跡

更新日:2013年1月28日

ここから本文です。

県内の主な史跡

コンテンツ一覧

金生遺跡

銚子塚古墳と丸山塚古墳

岡銚子塚古墳

竜塚古墳

谷戸城跡

武田氏館跡

甲府城跡

恋塚一里塚

御勅使川旧堤防

徳川家康側室養珠院墓所

 

 金生遺跡

金生遺跡

指定区分国指定史跡

指定名称金生遺跡

指定年月日 昭和58年2月7日

所在地 北杜市大泉町谷戸(指定当時、北巨摩郡大泉村)

所有者 北杜市

 

概要

金生遺跡は八ヶ岳南麓、標高約770mの地に営まれた縄文時代後期から晩期(約3000年前)の集落跡です。

この遺跡は昭和55年に県営圃場整備事業に先立って発掘調査されました。発見された遺構は、住居跡や石組の墓とそれに関わる石組の祭祀遺構(おまつりのあと)でした。

特に配石遺構群は規模形に例を見ないほど大きく、縄文時代後期から晩期に渡って繰り返された縄文人の「まつり」の姿を我々に語りかけてくれるものとして広く関心を集めました。

また、発見された出土品は男根を表現した石棒や祭祀用の土器、石剣、土偶、耳飾り、獣の骨など多種多様なものです。中でもユーモラスなスタイルの「中空土偶」は容器としての用途が推測される極めて特殊かつ珍しいものでした。

金生遺跡の調査は、それまでの縄文時代後期・晩期が持っていた「文化衰退」のイメージをくつがえすものであり、最後の縄文文化が呪術的な盛り上がりを見せたことを色濃く残す遺跡であるとして、全国的な評価を受けました。

その結果、金生遺跡は多くの人びとの尽力によって現地保存が図られ、昭和58年には国史跡に指定されました。

現在は大泉村による遺跡整備が完了し、八ヶ岳、富士山、南アルプスをのぞむ素晴らしい環境と合わせて、縄文時代のムラやまつりの姿が体感できる公園として復元公開されています。

 

 

 銚子塚古墳と丸山塚古墳

上空からみた銚子塚古墳と丸山塚古墳上空から見た銚子塚古墳(右)と丸山塚古墳(中央)

指定区分国指定史跡

指定名称 銚子塚古墳附丸山塚古墳

指定年月日 昭和5年2月28日

所在地 東八代郡中道町下曽根

所有者 山梨県


概要

甲府盆地の南東部、曽根丘陵一帯には数多くの遺跡が存在しています。このうち中道町周辺は、本県の古墳発祥の地であり、中でも4世紀後半に築造された前方後円墳の銚子塚古墳(全長169m)と5世紀前半に築造された円墳の丸山塚古墳(直径71m)は、ともに県内最大規模の古墳です。

銚子塚古墳は、東日本でも屈指の規模を誇り、墳丘には葺き石が張り付けられ、埴輪が並べられていたことが、発掘調査からも明らかになっています。また昭和初期に発見された石室からは、青銅鏡・勾玉・腕飾り・鉄製品など豊富な副葬品があり、当時の政治の中心である畿内からの影響を強く受けた古墳として知られています。
現在は、「甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園」のなかにあり、史跡公園として整備されています。

補足説明

最近、新たに公有地化された部分で、銚子塚古墳の周囲をとりまく堀(周溝という)の確認調査が進められ、いくつかの新発見がありました。

調査を担当する県埋蔵文化財センターのホームページでご確認ください。

 

 岡銚子塚古墳

指定区分県指定史跡岡銚子塚古墳

指定名称 岡銚子塚古墳

指定年月日 昭和63年5月12日

所在地 笛吹市八代町岡(指定当時、東八代郡八代町)

所有者 笛吹市

概要

本県で畿内王権の影響を受けて古墳が造営されるのは、およそ1,600年ほど前からで、初め中道町にある風土記の丘周辺に集中して築造された。ついで八代町や境川村・御坂町などへその分布を広げていき、6~7世紀には盆地北縁にも小規模な古墳群が営まれている。

岡・銚子塚古墳は、曽根丘陵東端の台地先端部に築かれた典型的な前方後円墳で、全長84メートル、後円部の墳丘高が8.1メートルと県内有数の規模を誇る。甲斐国志によれば宝暦13年(1763)に盗掘を受けており、銅鏡や鉄刀などが散乱していたとあるが、現物は残念ながら散逸してしまった。最近では、開墾によって鉄刀一振と埴輪片が出土している。

涼風に吹かれながら墳頂部に立ち、おもむろに甲府方面を眺望すると、緑豊かな盆地の光景があたかもパノラマのように展開し、いにしえの王が何故この地に自らの墳墓を築いたのか、分かるような気がするのである。

 

 武田氏館跡

武田氏館跡南側上空から見た武田氏館跡の全景

指定区分国指定史跡

指定名称 武田氏館跡

指定年月日 昭和13年5月30日

所在地 甲府市古府中町

所有者 武田神社・甲府市ほか


概要

武田氏館跡は、永正16年(1519)信虎が石和の川田より躑躅崎の地に館を移し、甲斐府中の意である甲府と名づけ、領国経営の拠点としたことに始まる。以後、天正9年に韮崎の新府城が出来るまで、武田3代の居館として60余年に亘り営まれ続けた。
館跡からは南に甲府盆地が一望に出来、背後は深い山懐に抱かれ、要害山や湯村山等天然の要衝を利用した山城が周囲に配置されている。また、古文書や絵図によれば、館の周囲には武田親族衆や家臣団の屋敷が構えられ、商工業者の居住区も南側に広がり、城下町的な様相を呈していたようである。
武田家滅亡後は、家康の命により平岩親吉が城代として赴いており、南側の梅翁曲輪はこの時築かれたものとされている。その後、甲府城が完成するとともに城下は南に移り、館跡は竹藪に覆われ、周辺一帯は田畑と化した。まさに、歴史のはかなさを知るのである。

 

 谷戸城跡

谷戸城跡写真は八ヶ岳を背景にした谷戸城跡(南から)

指定区分国指定史跡

指定名称 谷戸城跡

指定年月日 平成5年11月29日

所在地 北杜市大泉町谷戸

所有者 北杜市(指定当時は大泉村)


概要

谷戸城跡は、平安時代末期の源清光の居城との伝承を持つ城跡です。源清光は甲斐源氏の祖、新羅三郎源義光の孫で、常陸国から甲斐国市川荘に配流され、刑を終えた後、逸見(へみ)荘に移って逸見氏を名乗りその地に定着しました。その折り谷戸城を築いたとされます。また、武田氏滅亡後の天正10年(1582年)には、小田原北条勢が入り改修をしているとされています。

この城は、八ヶ岳南麓に点在する小山の一つを城として利用しており、東西400m、南北300mの規模です。山頂の主郭は高さ2m程の土塁に囲まれ、3ヶ所の虎口(こぐち)を持ちます。この主郭を中心に6段の郭(くるわ)を配し、空堀や土塁をめぐらした本格的な山城です。大泉村教育委員会により一部が発掘調査がなされており、土塁や堀、礎石らしい平石が確認され、青磁の破片や土器、古銭などが出土しています。

近く国指定史跡になる予定です。(補足説明参照)

補足説明

この記事の最後にもありますが、これが書かれた時点では、まだ国指定ではなく、この年の11月に告示され、山梨県下で9番目の国指定史跡となりました。

現在、谷戸城跡では、史跡整備の工事が進められており、郭や土塁などが昔のように復元されるなど、在りし日の姿がよみがえりつつあります。また近接してガイダンス施設の建設がされています。今後、整備工事やガイダンス施設(資料館)の完成を待って、史跡のいっそうの活用が図られることが期待されます。

 

 甲府城跡

甲府城跡その1

指定区分県指定史跡

指定名称 甲府城跡

指定年月日 昭和43年12月12日

所在地 甲府市丸の内1丁目5

所有者 山梨県

概要

石垣を支えた松丸太甲府城は、天正18(1590)年以後に豊臣大名によって築城が開始され、慶長5(1600)年にはほぼ完成し、その後は江戸幕府の将軍家お膝元の城として重要視され、明治維新を迎えます。明治以降廃城となった甲府城は昭和43年に県の史跡に指定されました。平成2年から石垣復元工事とそれに伴う発掘調査を開始したところ、堀底からはしご状に組まれた数十本の松丸太が検出されました。これは“胴木”と呼ばれ、湿地など弱い地盤の上に石垣を築く時に根石(石垣の最下部の基礎石)の更に下に組まれてその基礎となるだけではなく、積んだばかりの石垣が自重で沈む際に石材が不等沈下したり、石垣全体が同時に前面へ滑りだすのも防ぐ重要な役割を担った松丸太なのです。およそ400年にわたり1,000トン以上もの石垣を支え続けてきたのは、松丸太だったのです。調査結果をもとに、近年では例のない胴木を用いた石垣の復元がなされ、甲府城の石垣は築城時の姿に戻りつつあります。

補足説明

甲府城跡その2

甲府城跡は、都市公園の「舞鶴城公園」としてひろく県民に親しまれていますが、公園を安全で、より使いやすく、しかも歴史的な雰囲気にあふれたものとなるよう、“平成の石垣大修理”や“鍛冶曲輪門”、“稲荷門”、“内松陰門”などの門、それに“稲荷櫓”の再建などを内容とした公園整備事業が、平成2年度より進められてきました。これにより上の記事のもとになった発掘調査も行われてきたのです。
上の記事は、10年あまり前の、発掘調査が始まったばかりの頃の情報であり、その後調査が進む中で甲府城跡は、金箔を施した鯱瓦や飾り瓦などの発見もあって、文禄年間(1592-1596)の後半頃から、豊臣秀吉の下命により、急ピッチで石垣や櫓建物などの建設が進められたと考えられるようになっています。石垣の根っこを支える松の丸太が発見された場所は、現在、こちらの写真のようになっています。
なお、公園整備の最終に位置付けられた“稲荷櫓”の平成16年4月のオープンをもって、この事業も一区切りというところです。

鉄門の復元整備が完了し、公開されています。

・平成22年度から開始した鉄門の復元整備が完了し、平成25年1月10日から公開されています。

 

鉄門復元整備の詳細

 恋塚一里塚

恋塚一里塚甲州街道の面影を残す一里塚

指定区分県指定史跡

指定名称 恋塚一里塚

指定年月日 平成14年7月4日

所在地 上野原町大野

所有者 上野原町


概要

恋塚一里塚は、北都留郡上野原町大野字犬目にあります。この一里塚は、甲州街道の犬目宿より約1kmの距離で、扇山山麓の標高543mの恋塚集落の東側に位置しています。

本来この一里塚は、甲州街道を挟んで南北に2基ありましたが、北側の1基は現在残されていません。塚の規模は、直径約12m程で、高さは約5mの円丘を呈しています。恋塚一里塚は、江戸日本橋を起点に21番目21里(82.02km)の地点、犬目宿地内にあたり、一里塚は、江戸時代の主街道に1里(3.92km)ごとの両側に5間(9m)四方の小山を築き、榎・松・ケヤキ・モミなどを目印として植えて設けられた塚で、旅行者が歩いた距離を知る目安や、人夫や馬を借りるものが駄賃を支払う基準にしていました。とくに夏の炎天下に長旅をしたとき一休みするのによい木陰になり、にわか雨の時かっこうの雨宿りの場となりました。

この恋塚一里塚は、本県の中でも最もよく形を残した一里塚といえます。

 

 

 御勅使川旧堤防

御勅使川堤防遺跡航空写真写真は御勅使川旧堤防のうち“将棋頭”の空中写真

指定区分国指定史跡

指定名称 御勅使川旧堤防

指定年月日 平成15年3月25日

所在地 韮崎市・南アルプス市(指定当時は、中巨摩郡白根町)

所有者 国ほか

概要将棋頭(しょうぎがしら)と石積出(いしつみだし)

御勅使川は、南アルプスを源として、白根町有野で山地を離れ、韮崎市境を流れて八田村で釜無川と合流する10.8キロメートルの川です。

古くから暴れ川として知られており、甲府盆地中央部まで被害を及ぼし続けてきました。

将棋頭と石積出(御勅使川旧堤防)は御勅使川の扇状地に作られた堤防で、いわゆる信玄堤の一部をなす堤防です。御勅使川が盆地に流れ出す白根町有野の扇頂部に石積出とよばれる堤防を設けて川の流路を固め、次に扇央部に将棋頭と呼ばれる将棋の駒の形に似た堤防を設け、流路を分けて水勢をそぎ、さらに釜無川との合流地点の竜王町には、信玄堤が築かれ、盆地中央部を守ろうとしたのです。

この堤防は、戦国時代以来の甲州流川除と呼ばれる治水技術の特色を今日に伝える遺跡として貴重です。

補足説明

この記事が書かれた当時は、国指定として答申されたものの告示なされておらず、このほど、告示され山梨県下で12番目として国指定史跡の仲間入りをはたしました。元の本文の中にある白根町や八田村は、平成15年4月1日をもって合併し、いまは南アルプス市となっています。

 

 竜塚古墳

竜塚古墳の平面と遠景

指定区分県指定史跡

指定名称 竜塚古墳

指定年月日 平成16年5月6日

所在地 笛吹市八代町米倉(指定当時は東八代郡八代町)

管理者 笛吹市

概要

竜塚古墳は、東八代郡八代町米倉の集落の南側丘陵台地上にある、方墳という大変珍しい形をした古墳です。真上から見ると四角形をしており、その一辺が約56メートルと、全国の方墳の中でも規模の大きな部類に入り、形だけでなく大きさの面からも注目されるものです。

平成12年度から4年間にわたって行われた発掘調査の結果、墳丘斜面の中ほどには幅三メートルほどの中段が回り、その上部には葺石が認められました。また古墳の周囲には、周溝と呼ばれる空堀がめぐっていることも分かりました。

この古墳は、約1500年余り前に造られた、この地域を治めていた豪族の墓です。その埋葬施設は、石室を用いないもので、部分的な発掘調査によって、古墳の上面中央に深さ1.5メートルほどの竪穴を掘り、その底面に木の棺を安置したものと推定されています。

竜塚古墳の周辺には、東側1キロ弱にある前方後円墳の岡銚子塚古墳など重要な遺跡が多く見られます。保存が進められるこれらの史跡の丘に立ち、遙かな古代に思いをめぐらせてみてください。

 

 徳川家康側室養珠院墓所

徳川家康側室養珠院墓所

種別:史跡
名称:徳川家康側室養珠院墓所

(とくがわいえやすそくしつようじゅいんぼしょ)
所在地:山梨県南巨摩郡身延町大野839番1
所有者:大野山本遠寺

(おおのさんほんのんじ)
構造・形式:養珠院墓所宝篋印塔高さ4.55m、基壇部最下層3.94m

玉垣(外柵)前方部長辺8.9m短辺5.2m後方部6.4m四方

石門(平唐門)高さ2.73m間口2.13m

手水盥

養珠院墓所周辺石造物紀州徳川家供養塔3基

石灯籠16基

石段墓所正面に幅3.4m長さ28.2m

石垣東西方向高さ1.8m長さ6m、南北方向高さ2.2m長さ16m

概要

養珠院お万の方は、徳川家康の側室として、紀州藩祖徳川頼宣(とくがわよりのぶ)、水戸藩主徳川頼房(とくがわよりふさ)を生んだ。家康没後、養珠院と称し、法華信仰に篤く身延山久遠寺、大野山本遠寺などの諸寺を護持した。没後、遺言により、大野山本遠寺に葬られた。
養珠院墓所は、徳川頼宣が、母の菩提のために建立した宝篋印塔(関西形式)で、欠損部位はなく、保存状態は良好である。
また、墓所周辺には、紀州徳川家の供養塔が3基、石灯籠、石段、石垣が配置されている。
本物件は、養珠院お万の方という一女性を介して展開された徳川時代における日蓮宗及び本遠寺の歴史を証する遺産であり、また、養珠院の墓所、墓域、寺域内の石垣及び石塔群が良好にまとまり、本県の高い石材加工及び石垣構築技術を現在に残す貴重な資料である。
このように、本史跡は、山梨の近世大名墓の墓制、葬制を物語る希少な遺構であり、当時最上級の技術や部材により造り出され、徳川家の盛時を偲ばせる。また、灯籠の銘文から一時代における紀州藩重臣の構成や序列を示す良好な史料として優れていて、県指定文化財にふさわしい価値がある。

 

このページに関するお問い合わせ先

山梨県教育委員会教育庁学術文化財課 
住所:〒400-8504 甲府市丸の内1-6-1
電話番号:055(223)1790   ファクス番号:055(223)1793

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?

広告スペース

広告掲載について