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更新日:2009年2月20日
拝殿の外観
指定区分:県指定有形文化財(建造物)
指定名称:北口本宮冨士浅間神社拝殿および幣殿1棟 附石垣・本殿瑞垣および恵毘寿社(きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃはいでんおよびへいでん1とう つけたりほんでんみずがきおよびえびすしゃ)
指定年月日:平成21年2月16日
所在地:富士吉田市上吉田
所有者:北口本宮冨士浅間神社
北口本宮冨士浅間神社は、富士山北側の緩斜面に位置する大社であり、ここより吉田口登山道が山頂へと向かう。
当拝殿・幣殿は北口本宮冨士浅間神社の本殿の前にあり、北面して(正確には北東方面に向いて)建っている。本殿周囲の瑞垣を高くして本殿建物を保護すると同時に、瑞垣柱を幣殿へと接続している。また、瑞垣裏に間口一間の恵毘寿社(えびすしゃ)を祀る。
幣殿は北面で拝殿へと接続し、屋根は正面側で拝殿背面に繋がり、拝殿は入母屋造(いりもやづくり)で千鳥破風(ちどりはふ)をつけ、さらに正面向拝(こうはい)には唐破風(からはふ)を架ける堂々とした大型の拝殿建築である。
現在の拝殿・幣殿は享保18年~元文3年頃に建立され、元文4年(1739)正月に完成した建築である。『甲斐国志』によると、元和元年(1615)の建立、慶安2年(1649)の修造を経て、江戸の村上光清(むらかみこうせい)によって享保18年(1733)~元文3年(1738)に本殿とともに修造したとある。
拝殿は割拝殿の形式をとり、中央間(石の間)の幅が幣殿の梁間に一致することから同時期に計画、建設されたものと考えられる。幣殿出組の木鼻彫刻、拝殿縁束の実肘木(さねひじき)・木鼻(きばな)・蟇股(かえるまた)に見られる彫刻は渦の幅、鎬の深さなどから江戸時代中期(18世紀前半)の形状を示しており、『甲斐国志』及び当社に所蔵される史料の記録通り村上光清の再建になる建物と考えて間違いない。
拝殿正面の向拝は、水引虹梁(みずひきこうりょう)やその上に付けられた彫刻などから、後に修補された可能性があると思われる。また、幣殿・拝殿とも屋根は現在銅板葺であるが、大正13(1924)~14年の修復で檜皮葺(ひわだぶき)から銅板葺(どうばんぶき)に替えられた。
本殿の桃山建築らしい華やかさに合わせるように建立された幣殿、拝殿であり、大虹梁などを用いて拝殿中央通りから幣殿にかけて、見通しのよい広い参拝空間を作ることに成功している。また軒廻りの組物や彫刻、縁下の構成、建具の使い方などに見所も多く、江戸時代中期を代表する幣拝殿として秀逸な遺構である。
指定区分:県指定有形文化財(絵画)
指定名称:絹本著色熊野曼荼羅
(けんぽんちゃくしょくくまのまんだら)
指定年月日:平成13年2月8日
所在地:笛吹市(指定当時は、東八代郡八代町 )
所有者:熊野神社
この熊野曼荼羅は社殿の内外に熊野十二所権現を主体とする諸神を雛壇式に配置するいわゆる垂迹系曼荼羅である。
階上の社殿内部には、上段に熊野三所権現の三主神、右から熊野本宮の家都御子大神、熊野速玉大神、熊野那智神社の熊野夫須美大神。下段は右に那智滝を神格とする飛滝権現、左に若宮の神体、若王子が表されている。
階下の前庭には、それ以外の十体の神々が、上段には禅師宮など四体、下段には勧請十五童子など六体、いづれも立像で表されている。
積年の劣化により画面に損傷がやや目立つが、補筆はほとんどなく、本図の表現は極めて明快で、諸神の容姿や表情にも優れた表現力が示され、筆者の高い力量を十分窺うことができる。熊野曼荼羅は数多く描かれているが、本図は他の諸本に比べて十二所権現のみを中心に大きく表す点に特色がある本格的な絵師の筆によることは明らかである。製作時期も鎌倉時代中期に遡るものとみられ、この種の神道曼荼羅の中でも古作に属する優品である。
〔出典: 『教育やまなし』No.198 2002(H14).3.10〕
指定区分:国指定重要文化財(建造物)
指定名称:善光寺本堂(ぜんこうじほんどう)
指定年月日:昭和30年6月22日
所在地:甲府市善光寺3-36-1
所在者:善光寺
善光寺は、永禄元年(1558)に武田晴信(信玄)が、信濃善光寺の鏡空上人を開山に迎え、同寺の本尊を移して開創した浄土宗の寺である。
本堂は永禄8年に完成、落慶供養が盛大に行われ、その後も代々の領主の保護をうけて維持されてきたが、宝暦4年(1754)の火災で焼失した。
現在の本堂は、明和3年(1766)に着手し、寛政8年(1796)に完成したもので、その間30年を要したため、工事が遅々として進まないことを世に「善光寺普請」と呼ぶ。桁行38m、梁間23.6m、高さ26mの規模は、見る者を圧倒する迫力がある。
日本有数の木造大建築の一つに数えられ、昭和30年6月22日重要文化財に指定されている。
〔出典: 『教育やまなし』No.129 1987(S62).11.1〕
指定区分:国指定重要文化財(建造物)
指定名称:星野家住宅(ほしのけじゅうたく)
指定年月日:昭和51年5月20日
所在地:大月市花咲193
所有者:星野氏
星野家は、江戸時代の初めに設定された甲州街道下花咲宿の本陣であり、花咲宿(村)の名主を務めていた旧家です。
現在の住宅は、天保6年(1835)に焼失したあと再建されたと伝えられ、嘉永5年(1852)の家相図がその完成時期を示すものと見られています。
建造物は主屋の他に籾蔵、味噌蔵及び文庫蔵があり、後世の改造も少なく、本陣建築の特色をよく残しており、宅地を含めて全て重要文化財に指定されています。
明治13年(1880)に明治天皇が巡幸のため山梨県を訪れた際には、地元の名望家である当家が御小休所にあてられました。
このほど全面解体修理が完成し一般公開されています。
〔出典: 『教育やまなし』No.170 1995(H7).2.10〕
指定区分県:指定有形文化財(建造物)
指定名称:大善寺山門1棟 附・棟札1枚、扁額1面
(だいぜんじさんもん1とう
つけたりむなふだ1まい、へんがく1めん)
指定年月日:平成14年3月4日
所在地:甲州市勝沼町勝沼3559
所在者:大善寺
大善寺は甲府盆地東端の柏尾山の南麓に位置し、国宝・大善寺本堂附厨子、。重要文化財・木造薬師如来及び両脇侍像、木造十二神将立像をはじめ、県及び町指定文化財11件を擁する真言宗智山派の古刹である。
現在の山門は、寛政12年(1798)に再建されたものだが、暦応2年(1339)の寺蔵文書に、文永7年(1270)の火災で焼失したとの記載があり、その当時から山門が存在したことがわかる。
この山門は、境内入口近くの石段の参道に位置し、山岳寺院の山門として、豪快な木割りの本堂に似合う規模の三間一戸二階二重門である。屋根の葺材が変わった時に垂木の一部を取り替えた以外は当初の形式と材料がよく残っている。
なお、再建当時の棟札が残り、建立記録、施工大工が明らかであることも貴重である。
正面二階軒下の扁額は、前身の山門が元禄17年(1704)に建立された後まもなく、三枝氏の子孫によって宝永5年(1708)に寄進されたものである。
〔出典: 『教育やまなし』No.200 2002(H14).9.10〕
指定区分:県指定有形文化財(彫刻)
指定名称:本遠寺伝釈迦如来立像
(ほんのんじでんしゃかにょらいりゅうぞう)
指定年月日:昭和55年9月16日
所在地:身延町大野839
所有者:本遠寺
この如来像は、銘によれば文永3年(1266)に、法橋円覚らによって造顕されたもので、像高は97.7センチあり、高さ56.6センチの蓮華座の上に立っています。
像は内刳りのある桧材の寄木造で群青色の螺髪、玉眼を納めた細い目と穏和な表情をもち、衲衣は流麗で高雅な風格があります。
この像には、両耳の後ろで前後に剥いだ顔の部材を耳の部分ではなく、胸の下方の襟際で体に挿入していることや、下脚部まで垂らした衲衣とその下方内側のすそが完全に分離できるようになっており、衲衣に鞘状にすそを差し込むように造られているなどの特徴があります。これは鎌倉時代の仏像制作技術を知るうえで貴重な文化財となっています。
平成5年度に解体修理が行われ、往時の姿が甦りました。
〔出典: 『教育やまなし』No.169 1994(H6).11.10〕


指定区分:県指定有形文化財(絵画)
指定名称:甲府道祖神祭幕絵東都名所目黒不動之瀧歌川広重筆・
東都名所洲さき汐干狩二代歌川広重筆附目録不動之瀧用麻製吊縄一本
(こうふどうそじんまつりまくえとうとめいしょめぐろふどうのたきうたがわひろしげひつ・
とうとめいしょすさきしおひがりにだいうたがわひろしげひつ
つけたりもくろくふどうのたきようあさせいつりなわいっぽん)
指定年月日:平成16年5月6日
所有者:山梨県
甲府の小正月の道祖神祭は、江戸時代中期以降の甲府商人の隆盛に伴って「当国一大盛事」と称されるほど盛大でした。各町ごとに画題を決め、江戸の浮世絵師や京都の絵師などに幕絵の制作を依頼して、趣向と贅をこらしました。その中でも注目されるのが、今回紹介する初代および二代歌川広重の幕絵です。
「東都名所目黒不動之瀧」では、二条の瀧が落ちる池や山門の屋根などが配され、目黒不動に参拝する人々を混えた広々とした景観が展開しています。「東都名所洲さき汐干狩」は、汐干狩りでにぎわう洲崎の広大な海浜風景で、中央手前に女性と子供らの姿を大写しし、背後に弁天社の社殿を大きく取り、左右奥にも人物を小さく配し、さらに左端に近接拡大した船を配するなど、遠近的な効果を出しています。
これらの幕絵は、初代広重、二代広重の画業の一端をかいま見ることのできる貴重な作品であり、幕末の甲府道祖神祭の盛大さと、甲府町人の積極的な江戸文化吸収の実態を物語る貴重な資料です。
〔出典: 『教育やまなし』No.208 2004(H16).9.10〕
指定区分:県指定有形文化財(工芸品)
指定名称:銅製経筒及び付属品(どうせいきょうづづおよびふぞくひん)
指定年月日:昭和47年1月27日
出土地:南アルプス市秋山(指定時、中巨摩郡甲西町秋山)
所有者:秋山隆
この経筒は、慶安年間(1648年~52年)に甲西町秋山の熊野権現社の境内から発見されたものです。熊野権現社は、甲斐源氏加賀美遠光の館跡に建てられたもので、この経筒も、その銘文から、光朝の弟である光経が一族の平安を祈って埋納したものと思われます。
経塚とは、書き写した経典を中に入れて、地中に埋める容器のことですが、これを埋納した場所には多少の盛り土がほどこされ、経塚と呼ばれています。こうした経塚をつくる風習は、末法思想の盛んになった11世紀頃から普及してきたもので、後には極楽往生等の祈願や追善供養のためにつくられるようになりました。
本県出土の経塚としては、勝沼町柏尾で発見された康和5年(1103年)の銘のもの(現在東京国立博物館で保管)が最も古いのですが、建久8年(1197年)の銘をもつこの経筒は、これに次いで古いもので、県内に現存する工芸的に最も優れた作品として、他の出土品(外筒1・陶製壺1・鏡1・短刀3)とともに県の文化財に指定されています。
〔出典: 『教育やまなし』No.1151981(S56).3.1〕
指定区分県:指定有形文化財(歴史資料)
指定名称:柳澤吉保・定子関係資料一括
(やなぎさわよしやす・さだこかんけいしりょういっかつ)
指定年月日:平成19年4月26日
所在地:甲州市塩山小屋敷
所有者:恵林寺
本資料は、宝永元年(1704年)から6年間、甲府藩主であった柳澤吉保と正室定子夫妻の所用具と、柳澤吉保が菩提寺として建立した永慶寺に寄進されていた道具類・経典類です。
吉保の隠居後、家督を相続した柳澤吉里の代に、甲斐から大和郡山への転封に際し、永慶寺が破却されることになり、夫妻の遺骸が恵林寺へ改葬されると共に、夫妻の所用品等とともに、永慶寺に寄進されていた品々も恵林寺へ寄進されました。
遺存する品は、武具類、膳具、化粧道具、香具類、追悼和歌、手鑑、経典類、銅鐘などで、寄進にあたり作成された覚帳等に記載されています。記載品の多くは失われ、遺存する品はその内の約五分の一ですが、概ね保存状況は良好です。
本資料は、甲斐国十五万石の大名であり、幕府内において重きをなした柳澤吉保の地位を如実に反映しており、工芸資料としても注目されています。
〔出典: 『教育やまなし』No.2202007(H19).9.10〕
指定区分:国指定重要文化財(建造物)
指定名称:八ツ沢発電所施設
(やつざわはつでんしょしせつ)
指定年月日:平成17年12月27日
所在地:大月市・上野原市
所有者:東京電力(株)
東京電力八ツ沢発電所は、当時の東京市への電力供給を目的に、明治末期から大正初期にかけて建設された、我が国最初期の大容量発電・長距離送電を実現させた水力発電所です。
今回指定となったものは、取水口施設、隧道、水路橋、調整池堰堤など二十の構造物群で、大月市から上野原市にかけての約十四kmの範囲に現存しており、いずれも現在稼働中です。
それぞれ類型の異なる構造物に当時の高度な建設技術が発揮されており、保存状態もよく、当初の状態をほぼ維持していることから、我が国の土木技術や水力発電事業の歴史を知るうえで、大きな価値を持っております。
このような我が国の近代化に貢献した産業・土木等に係る文化財を近代化遺産と称しますが、八ツ沢発電所施設は本県初の近代化遺産の重要文化財であり、全国最大規模の重要文化財でもあります。
〔出典: 『教育やまなし』No.2142006(H18).3.24〕
指定区分県:指定有形文化財(絵画)
指定名称:絹本著色法然上人絵伝
(けんぽんちゃくしょくほうねんしょうにんえでん)
指定年月日:平成17年5月2日
所在地:笛吹市御坂町(山梨県立博物館)
所有者:山梨県・山梨県立博物館
法然(ほうねん)は長承2年(1133年)、美作の国(岡山県)に生まれ、父の遺言により出家し、比叡山で修行し、浄土宗の開祖となった僧です。
この法然上人の生涯を伝記として表した絵巻(絵伝)は後に数多く作られ、布教の一環として絵解きによる教化活動に用いられました。
本絵伝は、元々は勝沼町の万福寺に伝わったものです。二幅からなり、第一幅(日輪幅)は法然の前半生である生誕・出家・修学・談義・教化等発展の相を、第二幅(月輪相)は、専修念仏停止・追放・配流・赦免・最後の布教・往生等受難の相を収録するという顕著な対比が認められます。
特に数百人に及ぶ人物は極めて克明に描かれており、その細密な描写と鮮烈な彩色から、法然上人絵伝の最古に属する可能性が高く、価値の高い作品です。
〔出典: 『教育やまなし』No.2122005(H17).9.10〕
指定区分:県指定有形文化財(建造物)
指定名称:旧外川家住宅主屋、離座敷、中門
(きゅうとがわけじゅうたくおもや、
はなれざしき、ちゅうもん)
指定年月日:平成20年1月31日
所在地:富士吉田市上吉田三丁目501番1,504番1
所有者:富士吉田市
外川家は、屋号を塩屋あるいは大外川と号し、富士信仰における上吉田の御師である。元亀3年(1572年)の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に仁科六郎右衛門の屋敷がみえ、外川家ではこの人物が中興の初代とされている。また、寛文3年(1669年)の「検知帳」では、塩屋多兵衛の屋敷地が確認できる。御師としての活動は、江戸末期頃から明確になっているが、昭和37年に御師を廃業している。
建物の取り壊しが計画されたが、平成16年に富士吉田市が調査を行い、主屋から棟札が発見された。その後、市が購入し、建築物の実測、文書や民具の整理・調査を実施し、平成20年4月26日の一般公開となった。
主屋は、東西棟に配置され、基本的に南北2列に分け、前後とも畳敷の3室がある。南側には、玄関の間、中の間、前座敷が並び、接客空間の役割を担っていたと考えられ、離座敷の建設に伴い、奥納戸や風呂場が増改築されている。主屋は妻入り形式の典型的な御師住宅であり、棟札から明和5年(1768年)に建設されたものであることが判明している。構造は柱が多い、古式な折置組を原則とし二重梁を用いるなど、国重要文化財の小佐野家住宅などの江戸末期の御師住宅と比較しても、かなり古い形式の建物であることがわかる。
離座敷は、広間(15畳)、御神前(12畳)、下段の間、上段の間などから成り、大勢の宿泊を可能とするために増築されたと考えられる。釘隠に富士講の印である「○鉄」が用いられていることから、富士講の支援を受けて建設されたことが窺い知れる。外川家所蔵文書の中から、明治2年(1868年)の「売渡状」が発見されていることから、御神前にあった幕の奉納年である万延元年(1860年)頃に建設されたものと推測される。
中門は薬医門形式であり、建設時期は離座敷を増設した江戸末期頃と推定される。
「旧外川家住宅」は富士信仰を語る上で欠くことのできない御師住宅建築であり、かつタツミチ(通りから屋敷への細長い進入路)やヤーナガワ(水路)、富士講の石碑群など御師住宅特有の屋敷構えもよく残されている。富士山の信仰史上あるいは御師住宅の歴史上で極めて重要な文化財であり、非常に価値が高い。
指定区分県:指定有形文化財(書跡)
指定名称:保坂家文書
(ほさかけもんじょ)
指定年月日:昭和44年11月20日
所在地:甲斐市本竜王
所有者:個人
武田信玄が、甲府盆地を釜無川の洪水の惨禍から解放すべく、普請を始めたのが信玄堤であることはよく知られています。時期は定かではありませんが、信玄は、後に「上川除」と呼ばれる堤防を築くよう命じました。そして普請の目途がついた永禄三年(一五六〇)に、堤防の維持、管理と、旧河道を耕地にするための拠点として、竜王河原宿の建設を計画しました。そして、住人を募集すべく発布したのが写真の文書です。信玄は、永禄三年八月二日付で、住人募集に応じて竜王に移住し、家を建てた者には、今後は棟別役(家屋税)などの税金を一切免除すると通達しました。そのため、同八年までには、篠原を始めとする近隣十か村から、五〇人の移住が確認されています。保坂家には、戦国時代の竜王河原宿の人々が、信玄堤の修復や、堤防に繁茂する竹木の育成と無断伐採の監視など、洪水を防ぐための重要な役割を担っていたことを示す貴重な史料が残されており、先人たちの水との苦闘の様子を今に伝えています。
[出典:『教育やまなし』No.224平成20年山梨県教育委員会発行]
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