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更新日:2009年2月9日
指定区分:県指定無形民俗文化財
指定名称:吉田の火祭(よしだのひまつり)
指定年月日:平成20年1月31日
所在地:富士吉田市上吉田
保持団体:吉田の火祭保存会
概要
「吉田の火祭」は江戸時代からタイマツを燃やす祭りとして賑わっていたことが、文化11年(1814年)に刊行された「甲斐国志」に記載されている。日中戦争勃発後は規模を縮小し、終戦の年である昭和20年(1945年)のみ休止されたが、翌年には再開された。上吉田という限られた地域の祭礼であるが、古くから県内だけでなく東京や近県にも知られていた。
吉田の火祭は大別、御輿渡御(みこしとぎょ)とタイマツ点火から構成されている。タイマツの燃える様は最大の焦点となっており、8月26日には多くの観衆が集まってくる。翌27日には御鞍石(みくらいし)の神事、揚松の神事など古式をとどめた神事が行われ、御輿が浅間・諏訪神社本殿に納まるまで、ススキの幣束(へいそく)を手にした観衆が御輿の後を回る。
元亀3年(1572年)の年記のある「吉田之新宿帳」の記載から、本祭礼の歴史は400年以上も遡り得ることが知られ、浅間・諏訪神社御輿が諏訪明神神主である大玉屋佐藤家へ御幸し、同家の御旅所(おたびしょ)に一夜止まり、翌日還御した。大玉屋への御輿渡御は明治7年(1874年)まで続いたことから、火祭は本来は大玉屋を主体とする諏訪明神の祭礼であり、諏訪信仰と結びついた祭礼であったが、富士講の隆盛とともに浅間・諏訪両神社の祭礼という側面が強くなったものと想定されている。
また、本祭礼は富士信仰と結びついており、富士山型御輿の渡御は400年以上前から存在した。御師も重要な存在であり、家系に連なる人々が「北口御師団」を構成して神事に参加している。また、現在も多数の富士講の人たちが行衣姿で火祭に参加している。
組織面では、神職・氏子総代・御師団・世話人・神楽講ほか様々な役割分担で祭礼が実施されている。特に世話人は上吉田に居住している者の中から選出され、準備から後かたづけまで重要な役割を担っている。一般の住民も祭礼の参加者という側面が強く見られ、家々の前に積み上げられた井桁形タイマツに点火している。
このように、吉田の火祭は古い歴史と伝統を現代に伝える祭りであるとともに、地域の人々にとってはなくてはならない恒例の行事である。加えて諏訪信仰や富士信仰に関連した古い祭礼を伝える貴重な価値を持つ祭りでもある。本祭礼の特色と意義がいっそう明確に位置付けられるとともに、この祭りに内在している文化的側面がさらに広く認知されることが望まれる。
指定区分:県指定無形民俗文化財
指定名称:下市之瀬の獅子舞(しもいちのせのししまい)
指定年月日:平成18年4月27日
所在地:南アルプス市下市之瀬(旧中巨摩郡櫛形町)
所有者:下市之瀬獅子舞保存会
南アルプス市(旧櫛形町)下市之瀬の獅子舞は、「梅川忠兵衛」と「八百屋お七」という二種の獅子狂言(獅子芝居)を高い芸のレベルで伝承している点に特色があります。
また、この獅子舞は、小正月行事の中心的な役割を担っており、道祖神や神仏に奉納する獅子舞、結婚・新築などの祝い事のあった家や厄年の人の家での獅子舞、成人祝いを兼ねた娯楽的な要素を加味した獅子狂言の3種類に分けられ、民俗的な特色がみられます。
安政3年(1856年)の文書により、江戸時代から若者たちが獅子舞を担っていたことが解っており、明治時代には「祝祭世話係」「永盟社」という若者組織によって引き継がれていました。
小正月行事の一環として舞われてきたこと、ムラの芸能として継承されてきたことから、山梨県の国中地域の獅子舞の特色を良く表した貴重なものであり、今後も円滑に継承されることが望まれます。
〔出典: 『教育やまなし』No.216 2006(H18).9.10〕

指定区分:国指定重要無形民俗文化財
指定名称:天津司舞(てんづしのまい)
指定年月日:昭和51年5月4日
所在地:甲府市小瀬町
所有者:天津司舞保存会
天津司舞は地元ではオテヅツサンと呼ばれ、9体の等身大人形を古来から地元の17戸が操り、祭りごとに舞われてきたものであり、発生は中世にさかのぼると考えられている。もともと人形は12体あったが、舞遊中にうちの2体は天に昇り、1体は西油川村の鏡池に没したという神話(伝承)になっている。残る9体は小瀬村の産土神である諏訪神社社殿に鎮座してあったが、建久年間(1190~1198年)に下鍛冶屋村に武田の居館を移した際に神社も移したので、小瀬の旧社地には大永2年(1522年)に天津司社が建立されたと伝えられている。この由縁から4月の第一日曜日の祭日には、笛や木鼓の囃子にのって800mの小道を下鍛冶屋村の諏訪神社に向け、遣い手に捧げられてお成り舞うとされている。
天津司舞は中世芸能の特色を残す民俗行事として大変貴重である。なお、「天津司」とは室町時代の辞書である「新撰類聚往来」によれば、傀儡(テヅシ、クグツ)の意味とある。
[出典:『山梨の文化財(国指定編)』平成元年、山梨県教育委員会発行を一部抜粋改変]
指定区分:国指定重要無形民俗文化財
指定名称:無生野の大念仏
(むしょうののだいねんぶつ)
指定年月日:平成7年12月26日
所在地:上野原市秋山町
保持団体:無生野の大念仏保存会
大念仏とは人々が一堂に集まって念仏を修す行事であり、天治年間(1124~1125)頃に良忍(りょうにん:平安時代後期の僧)が融通念仏を始めてから踊躍歓喜の動作を伴って芸能化するようになったとされている。大念仏は江戸時代までは各地で盛行したが、その後は次第にすたれて、現在でも完全な形を残しているのは県下では無生野だけである。「無生野の大念仏」の発生を土地の人々は護良親王(もりながしんのう)の悲運の伝説に結びつけ、毎年正月16日と7月16日の二回、今でも大念仏が行われている。
大念仏の当日は、道場の奥に阿弥陀如来と不動明王・十六善神の軸を掛け、供物をそなえて灯明を点じ、祓い清めに用いる塩や砂を盛った皿をおいて読経を行う。道場は二間四方に間取って四隅に青竹をたて、注連縄(しめなわ)を四方に張り、また四隅から中央で交差するように縄を張る。注連縄にさげる幣束は四方に二十八宿、中央で交差する縄には二十五菩薩をかたどったものである。さらに中央に親柱を立てて、その根元に大太鼓と鉦などの鳴り物をおき、それを叩きながら踊るのである。
踊り方は一本太刀、二本太刀、お祓いとあり、囃子方は太鼓叩き2人、鉦叩き1人であるが、踊りの中に太鼓振り、太鼓叩きが混然となっていて、拍子は勇壮そのものである。
踊りのつかない念仏(小念仏)は他にもあるが、大念仏はこの「無生野の大念仏」が唯一であり、平成7年には国の重要無形民俗文化財として指定され保護されている。
【出典:『県指定山梨の文化財(改訂第3集)』、山梨県教育委員会、昭和57年発行】
指定区分:県指定無形民俗文化財
指定名称:追分の人形芝居
(おいわけのにんぎょうしばい)
指定年月日:昭和35年11月7日
所在地:大月市笹子町
保持団体:追分の人形芝居保存会
「追分の人形芝居」は淡路の諸座や文楽などと同じく三人遣いで、伝来は明確でないが、江戸時代には村落の若者たちによって維持・管理・演技とも受け継がれた。しかし、明治維新後の文明開化の風潮から、稽古も上演も急激にすたれて、その上で明治23年(1891)と明治40年(1907)の水害で、人形衣装や小道具などを大部分流出し、廃絶の危機に陥った。
追分の天野忠甫氏はこれを惜しんで、私財を投じて各地から人形や衣装を買い求め、自ら東京の西川伊三郎に入門して芸を磨き、西川伊久造の芸名をもらって村に座をおこしたのが現在の西川一座のはじめである。その後は忠甫氏の子息である福蔵氏が伊三郎に師事して二代目伊久造を名乗り、三代目座長晃氏は戦後の混乱期にも努力して耐え、伝統の灯を維持発展させた。
得意の上演演目は、「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段、「絵本太功記」尼ヶ崎の段、「本朝二十四孝」十種香の段、「奥州安達ヶ原」一つ家・袖萩祭文の段、「一之谷嫩軍記」熊谷陣屋の段、「日蓮上人御法海」などであり、ほかにも村の伝説を仕組んだ「吉久保美人鑑」などの地方色豊かなものもある。
人形の頭は淡路国の名匠「由良亀」作のもの、阿波徳島の「天狗久」作のものなどが数点あり、県下の他に類例を見ない民俗芸能である。
【出典:『県指定山梨の文化財(改訂第3集)』、山梨県教育委員会、昭和57年発行】
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