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更新日:2016年11月29日

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山梨県の国宝

 大善寺本堂(国宝・建造物)

大善寺

指定区分:国宝(建造物)

指定名称:大善寺本堂

(だいぜんじほんどう)

指定年月日:昭和30年6月22日

所在地:甲州市勝沼町

所有者:大善寺

概要

大善寺は真言宗智山派に属し、古くは柏尾寺、柏尾山寺などと称した古刹である。

付近の白山山中から発見された康和五年(1103年)の銅製経筒(国重要文化財)の刻銘に「柏尾山寺往生院」と見えるのが資料の初見。創建以来の伽藍は善美をつくしたと伝えるが、焼失すること数回に及ぶという。現在の本堂は、文永七年(1270年)の火災後の再建によるもので、弘安七年(1284年)に鎌倉幕府北条貞時が勧進し、甲信二国に棟別十文を徴収して費用に充て、弘安九年(1286年)立柱が行われ、着手以来6年を経て正応三年(1290年)に落成をみた。これは本堂背面の両隅柱にある「弘安九参月十六日」の刻銘により建立年代が確認できる。内陣には本尊である平安初期の木造薬師如来および両脇侍像(国重要文化財)を安置し、本堂は別に薬師堂とも呼ばれる。

本堂の規模は、桁行・梁間とも五間で、寄棟造の大屋根をあげて桧皮葺とし、堂の周囲に切目縁をめぐらす。全体的に木割が大きく雄大な趣をもつ堂宇である。柱は太い円柱で、柱上に実肘木つき二手先の組物を組み、軒支輪を付け、中備には間斗束を置く。軒は二軒繁垂木とし、深い軒の出をみせる。全体の構造と様式は和様の名で呼ばれる古い建築様式で造営されるが、頭貫の木鼻には円弧の連なる大仏様の繰形を用い、時代の新様式がはやくも東国に現れた例として注目される。

内部は前方二間通りを外陣、その奥二間通り中央三間を内陣とし、来迎壁の前面に仏壇を設け、本尊を納める厨子を安置する。この厨子は当初の作でなく文明五年(1473年)に再興されたことが鯱内面墨書により明らかである。内陣の後方および両側一間通りを後陣と脇陣とそれぞれに分けて呼び、内外陣の境には五間とも引違い格子戸を立て、菱組吹寄欄間をもって厳格な区画を設けた密教本堂の手法を示し、本尊を祀る正堂である内陣、前面礼堂の外陣における空間構成を表現している。

内外陣とも中央二間通りは梁行に二本の大虹梁を架けて柱を抜き、この上に斗栱を組むが、独特の様式をもつ繰形をつけた肘木や挙鼻を用いて特色を見せる。外陣母屋の天井を鏡天井とし、内陣母屋は構架の技法によって竿縁天井を一段高く設け、そして庇部分の周囲一間通りを化粧屋根裏とする。いずれも堂内を奥行のある広い空間構成とするもので、内外陣のすぐれた意匠となる。

建物の外観は正面中央三間を出入口として両開き桟唐戸を吊る。その両脇間に幣軸つき連子窓を設ける。両側前端一間と背面中央一間の出入口のほかはすべて横張りの板壁である。

この本堂は鎌倉時代の密教本堂の代表例であり、伝統的な和様の手法による和様建築の重要な遺構である。また本県最古の建物として知られる。昭和二十九年(1954年)に解体修理が行われた。


[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年山梨県教育委員会発行]

 清白寺仏殿(国宝・建造物)

清白寺仏殿

指定区分:国宝(建造物)

指定名称:清白寺仏殿

(せいはくじぶつでん)

指定年月日:昭和30年6月22日

所在地:山梨市三ヶ所

所有者:清白寺

概要

清白寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。寺伝によると足利尊氏が夢窓疎石を開山として正慶二年(1333年)に創立したと伝え、夢窓疎石の法嗣である清渓通徹が二世となったが、その後の寺歴は資料を失い明確でない。中興の昭州座元の代、天和二年(1682年)に火災をうけて伽藍、塔頭のほとんどを焼失、この仏殿のみ羅災をまぬがれて、創建時の遺構を今に伝えている。仏殿の建立年代はその様式より推定されていたが、大正六年(1917年)解体修理の際、組物の巻斗に「応永二十二年」(1415年)の墨書が発見され、その年代が判明した。仏殿は、鎌倉時代に禅宗をともなって中国から伝えられた新様式に基づく建築で、よく禅宗様の特色を示す。

方三間の身舎の周囲に“もこし”を付けた形式で、このため桧皮葺屋根は二重の外観となる。高く立つ身舎は入母屋造の屋根をあげ、“もこし”は四方に葺きおろしの屋根である。柱は円柱を用い、粽(ちまき)と称してその上下を急に細められ、柱下には礎石との間に礎盤を入れる。“もこし”の組物は柱上に三斗を組み、身舎は組物を出物とし、さらに詰組とした賑やかな扱いである。出入口には花狭間を用いた桟唐戸を入れ、正面両脇二間と両側面には花頭窓を開く。また波形連子の弓欄間や、頭貫先の木鼻、竪張りにした板壁など禅宗様の装飾的な特色である。石積基壇上に立つ仏殿の内部は、床板を張らず全部漆喰で固めた土間床で、身舎後方中央間の柱を取去り、来迎壁を一間後方に下げてその前に須弥壇を置き、堂内を広くしている。

“もこし”一間通りは化粧屋根裏をめぐらし、身舎柱と海老虹梁で繋がれ、また組物から斜めに持送られた手狭が装置され、繰形が施される。
身舎両側の前寄り二間は虹梁瓶束の構架で柱を省略し、広くするための方法が見られる。しかし身舎天井は方三間全面に鏡天井を張り、上部空間は禅宗様特有の虹梁大瓶束の構架による立体的な構成を示さない。また、上方の部材は全面にわたり彩色文様で飾られ、鏡天井には大きく墨画で雲竜が描かれている。なお須弥壇は堂と同時期の製作で禅宗様の典型である。

この仏殿は、身舎上部の構架を、三手先とせずに出物とした組物、“もこし”の垂木は疎垂木に配するなど簡略化がみられる。これは正統的な禅宗様仏殿といわれる円覚寺舎利殿(神奈川県)や正福寺地蔵堂(東京都)と比較すると、その規模もやや小さく、手法も簡素となって時代による変化があらわれ、地蔵堂より少し後れた頃の建築と考えられる。

鎌倉から室町時代は、貴族や武士の信仰を得て、各地に禅宗寺院が盛んに建立されたが、その後衰退したため現存する遺構はきわめて少なく、禅宗仏殿の古い様式を伝える一例として価値の高いものである。

 

[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年:山梨県教育委員会発行]

 小桜韋威鎧兜、大袖付(国宝・工芸品)

楯無鎧

指定区分:国宝(工芸品)

指定名称:小桜韋威鎧兜、大袖付

(こざくらかわおどしよろいかぶとおおそでつき)

指定年月日:昭和27年11月22日

所在地:甲州市塩山上於曽

所有者:菅田天神社

概要

この鎧の胴は黒漆塗平札の要所に互の目頭切付の鉄板を一枚交ぜとし、小桜藍染韋で毛引に威し、耳は紫韋、畦目、菱縫は紅韋を施す金具廻し、韋所は牡丹獅子文絵韋を張り、花菱文紅韋の小縁をつけ紫、萌葱、紺、白の色糸で伏組み、化粧板は浅葱小花文菖蒲韋包とし、紅白韋の端喰を出す。化粧板の八双鋲及び総角付鐶座、据文金物は、鍍金地板に鍍金花菱透座を伏せ、中央に同花菱笠鋲を打った、いわゆる武田菱の本歌である。蝙蝠付裏は牡丹襷霰地獅子文絵韋を張る。栴檀板、鳩尾板は欠失。兜は、黒漆塗鉄十枚張八間急勾配の厳星鉢で地星一行に六点、腰巻に一点ずつ、真向の三行には各五点を打つ。八幡座の孔大きく鍍金玉縁、裏菊、菱葉座を飾り、響孔は左右後中の三孔を穿ける。眉庇に鍍金魚子地雲文毛彫鍬形台と鍬形を付す、しころは五段で、杉立形に威し、四段をゆるやかに吹返している。大袖は小札板六段を下げ、水呑緒鐶を表に打ち、冠板の形状が中央稜形の花先形に成っているのは古雅掬すべく、「伴大納言絵巻」に描かれているほかは類例がない。

この鎧は甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来、武田氏の重宝として相伝され「楯無」と号し、信玄の時に甲府の鬼門鎮護のため塩山の上於曽村菅田天神社に納め一門の於曽氏をして監せしめた。武田氏滅亡の際、家臣田辺左衛門尉がこれを向嶽寺の大杉の下に埋めたが、家康が掘出し、再び同社に納めしめた。その後、盗難にあい大破したが、寛政三年江戸に於いて復旧修理、さらに文政十年甲冑師岩井某が修補したことが威毛の裏に墨書してある。

 

[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年:山梨県教育委員会発行]

[補足]この鎧の精巧な復元品を山梨県立博物館でご見学頂けます。

また、復元調査の詳細な報告も刊行されています。

『小桜韋威鎧兜・大袖付復元調査報告書-楯無鎧の謎を探る-』

(山梨県立博物館調査・研究報告1)平成19年(2007年)3月

絹本著色達磨図(国宝・絵画)

絹本著色達磨像

指定区分:国宝(絵画)

指定名称:絹本著色達磨図

(けんぽんちゃくしょくだるまず)

指定年月日:昭和28年11月14日指定

所在地:甲州市塩山上於曽2026

所有者:向嶽寺

 

概要

塩山向嶽寺に古くから伝わる縦123.0センチ、幅61.2センチのこの達磨像は、わが国に数多い達磨像図の中でも特に有名で、且つ禅宗美術史上重要な位置を占めている。かつて宋画とみられたこともあるが、用筆に宋画特有のきびしさがなく、画面全体に温雅な趣きが漂い、脚下の岩座も、宋画に見る剛直な岩角を作っていない。思うに、南宋画の影響を強く受けたわが国の画人が、心血を注いで描いたもので、建長寺蔵の「蘭溪道隆像」とともに、わが国における南宗画様式の早期受容の一端を窺い得る貴重な文化財であろう。

達磨像の肉身は、やや黄色味を帯び、朱色の頭布と法衣の用筆と相まって、活き活きとした面貌をとらえ、四方をにらむ両眸は俗に「八方にらみの達磨」といわれている。流暢な蘭葉描き風の太い黒線で法衣の褶を刻み、暈染を賦して立体感を現し、座禅を組む岸壁も重厚な安定感を与えている。まことに名手の霊腕を揮った逸品というべき像である。

上方の賛は、建長寺開山であり、また本県甲府市東光寺・韮崎市永岳寺等の開山でもある大覚禅師蘭溪道隆が、朗然居士(ろうぜんこじ)という人物のために着けたもので、次のように読める。

「香至国王之季子。般若多羅之克家。遊竺乾破六宗之執見。来震旦開五葉之奇花。香伝日域。瑞応河沙。少林元不墜霊芽。移向侯門発異葩。建長蘭溪道隆為 朗然居士 拝賛。」

為書の主、朗然居士とは誰であろうか、古来問題の人物であるが、確実にはわからない。その邸宅を侯門というところから察すると、鎌倉幕府の執権と見るのが至当であろう。かつては北条時頼説も唱えられたが、鎌倉建長寺所蔵の蘭溪道隆像の賛に、「辛未季春 住持建長禅寺 宋蘭溪道隆 奉為朗然居士 書于観瀾閣」とあり、辛未は文永8年に当たり、時頼の死後8年であるから、朗然即時頼説は根拠を失う。辛未の年に時頼の子時宗は既に21歳、文永5年以来幕府執権となり、兼ねて禅道に励み、道隆には深く帰依していた。朗然居士は時宗の号とみて差し支えないと思う。

道隆は宋の蜀の蘭溪の人、寛元4年(1246)に来日した。北条時頼厚く帰依し建長寺の開山に請じた。在住13年、大いに教化を垂れたが、のち勅命を蒙り、京都建仁寺住持となった。3年後に建長寺に帰住したが、悪僧の讒言に遭い甲斐に配流された。文永9年(1272)のことである。板垣庄東光寺、甘利庄永岳寺の2寺は道隆開山の峡中最古の禅刹である。3年ののち赦されて鎌倉の寿福寺に住山したが、またもや讒されて甲斐に遷り、漸く弘安元年(1278)4月赦され、建長寺に帰住した。同年7月、66歳で示寂した。朝延よりは大覚禅師と勅謚された。わが国禅師号の嚆矢である。

道隆は宋にあった頃、書家張即之の書を究めてこれをわが国に伝えた。即之の書は唐の褚遂良、宋の米元章らの筆法を学び、これに即之の創意を加えて独自の風格を帯びたもので、鋭い筆鋒による剛健な書体は、書道史上に特異な地位を占めている。これを究めた道隆の書は、門下禅僧らを通じて日本書道に大きな影響を与えた。向嶽寺達磨像賛の文化財的価値は、この点からも高く評価される。

 

[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年:山梨県教育委員会発行]

絹本著色夏景山水図(国宝・絵画)

絹本著色夏景山水図

指定区分:国宝(絵画)

指定名称:絹本著色夏景山水図

(けんぽんちゃくしょくかけいさんすいず)

指定年月日:昭和30年6月22日指定

所在地:身延町身延3567

所有者:久遠寺

概要

本図は、縦126.9センチ、横54.5センチ。絹本淡彩の掛幅装で中国北宋時代のものと推定されている。

古来より本図は、京都南禅寺塔頭金地院が所蔵する秋景山水図・冬景山水図の二幅とほとんどその大きさや描法を同じくし、しかも画上にある鑑蔵印までひとしくするもので、もと四季山水図四幅対(春景山水図のみなし)の別れたものと考えられ、筆者については北宋末の(約860年前)徽宗皇帝(皇帝筆国宝桃鳩図が別にある)と思考されているようである。

本図は左側下に大岩石を置き、その上部に画面約半分に2本の松(葉に淡緑、樹幹にうす茶をほどこす)を描く。右下谷底には小さく溪流にかかる橋上に長い杖をひく一道士が首をひねり、悠然と歩を運ぶ山中の景観が、墨筆の濃淡を主としてえがかれている。しかしこれをさらによくみると、一陣の風が嵐気をよび山容全体を包んでかすみ、岩上の松や道士の冠のヒモあるいは袖や裾が一方につよくなびいていることに気づく。また山間の上にわずかな淡朱色がぼかされて、夕陽の名残かと思われるものがみとめられる。そしてこれらの総体の画面から受ける感じは、松風の音、谷川の流水のひびき、はためく冠のヒモのうなりに耳をかたむけ、山中の静けさの中におきたこれら山水の声を深く楽しむ高士の、自然と同化したような詩情が、そくそくとしてせまってくるようである。

本図は一口にいって中国の北宗画、南宗画として、北宗の謹厳剛直的、南宗の余白暗示的画法が形式化される以前の、山水人物をよくみすえた写実的な作風の中に、また詩情をゆたかにうたいあげた主情的な作品であって、中国画の中においてもこれほどの品位の高い優れたものは、あまり多く見いだすことができないであろう。

なお本図には鑑蔵印(所蔵者の印)が3箇押されているが、「仲明珍玩」と「盧氏家蔵」の2印は共に中国の所蔵者印であって、少なくも明初を下らないものとされ、他の1印は「天山」とあり、これは足利三代将軍義満の鑑蔵印として名高く、鎌倉室町時代の宋元画の輸入が盛んであったことの一つの証左であり、金地院本は足利家から大内氏に伝わり、やがて天竜寺策彦の手許より金地院に所蔵されたといわれているが、久遠寺本は寛文一12年(1672)8月遠江国(静岡県)浜松城主太田資宗が、本寺に寄進したことがその箱の蓋裏にかかれており、それ以後は他に移動することなく、今日まで約300年久遠寺に所蔵されてきたものと思われる。しかしその太田氏の所蔵に帰するまで将軍義満から手ばなされた以後の伝来については不明であって、そのためか金地院本とくらべやや画面状態が悪く少々傷んでいたが、昭和40年修補されたので現在は立派に保存されている。

 

[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年:山梨県教育委員会発行]

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山梨県教育委員会教育庁学術文化財課 
住所:〒400-8504 甲府市丸の内1-6-1
電話番号:055(223)1790   ファクス番号:055(223)1793

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