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更新日:2011年8月22日
指定区分:国宝(建造物)
指定名称:大善寺本堂一棟(だいぜんじほんどういっとう)
指定年月日:昭和30年6月22日
所在地:甲州市勝沼町
所有者:大善寺
大善寺は真言宗智山派に属し、古くは柏尾寺、柏尾山寺などと称した古刹である。
付近の白山山中から発見された康和五年(1103年)の銅製経筒(国重要文化財)の刻銘に「柏尾山寺往生院」と見えるのが資料の初見。創建以来の伽藍は善美をつくしたと伝えるが、焼失すること数回に及ぶという。現在の本堂は、文永七年(1270年)の火災後の再建によるもので、弘安七年(1284年)に鎌倉幕府北条貞時が勧進し、甲信二国に棟別十文を徴収して費用に充て、弘安九年(1286年)立柱が行われ、着手以来6年を経て正応三年(1290年)に落成をみた。これは本堂背面の両隅柱にある「弘安九参月十六日」の刻銘により建立年代が確認できる。内陣には本尊である平安初期の木造薬師如来および両脇侍像(国重要文化財)を安置し、本堂は別に薬師堂とも呼ばれる。
本堂の規模は、桁行・梁間とも五間で、寄棟造の大屋根をあげて桧皮葺とし、堂の周囲に切目縁をめぐらす。全体的に木割が大きく雄大な趣をもつ堂宇である。柱は太い円柱で、柱上に実肘木つき二手先の組物を組み、軒支輪を付け、中備には間斗束を置く。軒は二軒繁垂木とし、深い軒の出をみせる。全体の構造と様式は和様の名で呼ばれる古い建築様式で造営されるが、頭貫の木鼻には円弧の連なる大仏様の繰形を用い、時代の新様式がはやくも東国に現れた例として注目される。
内部は前方二間通りを外陣、その奥二間通り中央三間を内陣とし、来迎壁の前面に仏壇を設け、本尊を納める厨子を安置する。この厨子は当初の作でなく文明五年(1473年)に再興されたことが鯱内面墨書により明らかである。内陣の後方および両側一間通りを後陣と脇陣とそれぞれに分けて呼び、内外陣の境には五間とも引違い格子戸を立て、菱組吹寄欄間をもって厳格な区画を設けた密教本堂の手法を示し、本尊を祀る正堂である内陣、前面礼堂の外陣における空間構成を表現している。
内外陣とも中央二間通りは梁行に二本の大虹梁を架けて柱を抜き、この上に斗栱を組むが、独特の様式をもつ繰形をつけた肘木や挙鼻を用いて特色を見せる。外陣母屋の天井を鏡天井とし、内陣母屋は構架の技法によって竿縁天井を一段高く設け、そして庇部分の周囲一間通りを化粧屋根裏とする。いずれも堂内を奥行のある広い空間構成とするもので、内外陣のすぐれた意匠となる。
建物の外観は正面中央三間を出入口として両開き桟唐戸を吊る。その両脇間に幣軸つき連子窓を設ける。両側前端一間と背面中央一間の出入口のほかはすべて横張りの板壁である。
この本堂は鎌倉時代の密教本堂の代表例であり、伝統的な和様の手法による和様建築の重要な遺構である。また本県最古の建物として知られる。昭和二十九年(1954年)に解体修理が行われた。
[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年山梨県教育委員会発行]

指定区分:国宝(工芸品)
指定名称:小桜韋威鎧兜、大袖付
(こざくらかわおどしよろいかぶとおおそでつき)
指定年月日:昭和27年11月22日
所在地:甲州市塩山上於曽
所有者:菅田天神社
この鎧の胴は黒漆塗平札の要所に互の目頭切付の鉄板を一枚交ぜとし、小桜藍染韋で毛引に威し、耳は紫韋、畦目、菱縫は紅韋を施す金具廻し、韋所は牡丹獅子文絵韋を張り、花菱文紅韋の小縁をつけ紫、萌葱、紺、白の色糸で伏組み、化粧板は浅葱小花文菖蒲韋包とし、紅白韋の端喰を出す。化粧板の八双鋲及び総角付鐶座、据文金物は、鍍金地板に鍍金花菱透座を伏せ、中央に同花菱笠鋲を打った、いわゆる武田菱の本歌である。蝙蝠付裏は牡丹襷霰地獅子文絵韋を張る。栴檀板、鳩尾板は欠失。兜は、黒漆塗鉄十枚張八間急勾配の厳星鉢で地星一行に六点、腰巻に一点ずつ、真向の三行には各五点を打つ。八幡座の孔大きく鍍金玉縁、裏菊、菱葉座を飾り、響孔は左右後中の三孔を穿ける。眉庇に鍍金魚子地雲文毛彫鍬形台と鍬形を付す、しころは五段で、杉立形に威し、四段をゆるやかに吹返している。大袖は小札板六段を下げ、水呑緒鐶を表に打ち、冠板の形状が中央稜形の花先形に成っているのは古雅掬すべく、「伴大納言絵巻」に描かれているほかは類例がない。
この鎧は甲斐源氏の始祖新羅三郎義光以来、武田氏の重宝として相伝され「楯無」と号し、信玄の時に甲府の鬼門鎮護のため塩山の上於曽村菅田天神社に納め一門の於曽氏をして監せしめた。武田氏滅亡の際、家臣田辺左衛門尉がこれを向嶽寺の大杉の下に埋めたが、家康が掘出し、再び同社に納めしめた。その後、盗難にあい大破したが、寛政三年江戸に於いて復旧修理、さらに文政十年甲冑師岩井某が修補したことが威毛の裏に墨書してある。
[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年:山梨県教育委員会発行]
[補足]この鎧の精巧な復元品を山梨県立博物館でご見学頂けます。
また、復元調査の詳細な報告も刊行されています。
『小桜韋威鎧兜・大袖付復元調査報告書-楯無鎧の謎を探る-』
(山梨県立博物館調査・研究報告1)平成19年(2007年)3月

指定区分:国宝(建造物)
指定名称:清白寺仏殿一棟(せいはくじぶつでんいっとう)
指定年月日:昭和30年6月22日
所在地:山梨市三ヶ所
所有者:清白寺
清白寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。寺伝によると足利尊氏が夢窓疎石を開山として正慶二年(1333年)に創立したと伝え、夢窓疎石の法嗣である清渓通徹が二世となったが、その後の寺歴は資料を失い明確でない。中興の昭州座元の代、天和二年(1682年)に火災をうけて伽藍、塔頭のほとんどを焼失、この仏殿のみ羅災をまぬがれて、創建時の遺構を今に伝えている。仏殿の建立年代はその様式より推定されていたが、大正六年(1917年)解体修理の際、組物の巻斗に「応永二十二年」(1415年)の墨書が発見され、その年代が判明した。仏殿は、鎌倉時代に禅宗をともなって中国から伝えられた新様式に基づく建築で、よく禅宗様の特色を示す。
方三間の身舎の周囲に“もこし”を付けた形式で、このため桧皮葺屋根は二重の外観となる。高く立つ身舎は入母屋造の屋根をあげ、“もこし”は四方に葺きおろしの屋根である。柱は円柱を用い、粽(ちまき)と称してその上下を急に細められ、柱下には礎石との間に礎盤を入れる。“もこし”の組物は柱上に三斗を組み、身舎は組物を出物とし、さらに詰組とした賑やかな扱いである。出入口には花狭間を用いた桟唐戸を入れ、正面両脇二間と両側面には花頭窓を開く。また波形連子の弓欄間や、頭貫先の木鼻、竪張りにした板壁など禅宗様の装飾的な特色である。石積基壇上に立つ仏殿の内部は、床板を張らず全部漆喰で固めた土間床で、身舎後方中央間の柱を取去り、来迎壁を一間後方に下げてその前に須弥壇を置き、堂内を広くしている。
“もこし”一間通りは化粧屋根裏をめぐらし、身舎柱と海老虹梁で繋がれ、また組物から斜めに持送られた手狭が装置され、繰形が施される。
身舎両側の前寄り二間は虹梁瓶束の構架で柱を省略し、広くするための方法が見られる。しかし身舎天井は方三間全面に鏡天井を張り、上部空間は禅宗様特有の虹梁大瓶束の構架による立体的な構成を示さない。また、上方の部材は全面にわたり彩色文様で飾られ、鏡天井には大きく墨画で雲竜が描かれている。なお須弥壇は堂と同時期の製作で禅宗様の典型である。
この仏殿は、身舎上部の構架を、三手先とせずに出物とした組物、“もこし”の垂木は疎垂木に配するなど簡略化がみられる。これは正統的な禅宗様仏殿といわれる円覚寺舎利殿(神奈川県)や正福寺地蔵堂(東京都)と比較すると、その規模もやや小さく、手法も簡素となって時代による変化があらわれ、地蔵堂より少し後れた頃の建築と考えられる。
鎌倉から室町時代は、貴族や武士の信仰を得て、各地に禅宗寺院が盛んに建立されたが、その後衰退したため現存する遺構はきわめて少なく、禅宗仏殿の古い様式を伝える一例として価値の高いものである。
[出典:『山梨の文化財国指定編』平成元年:山梨県教育委員会発行]
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