ふるさと山梨-中学校版-(デジタルブック版)
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92韮 崎 市[ Nirasaki, city of passion and dreams. To a future that shines like its people ] 夢と感動のテーマシティ にらさき美しく,人・未来が輝く未来へのものがたりわたしたちのまち人口30,672人 面積143.6㎢ (H27.10.1)「七里岩」の長さと高さはどれくらいかな。どのようにしてできたのかな。武田の里・にらさき 清和天皇の流れを汲む新しん羅ら三さぶ郎ろう義よし光みつの子,義よし清きよは甲斐に土着し甲斐源氏の始祖となります。その孫にあたるのが信のぶ義よし。信義は武田の庄を与えられ,武田の姓を名乗り,強大な勢力を誇りました。以来,韮崎は甲斐武田家の故郷となります。 この信義から数えて16代目の当主となったのが武田信玄であり,戦国の世に甲斐・信濃地方の覇者として君臨しましたが,天下統一の夢かなわずその生涯を閉じました。信玄の遺志を継いだ勝頼は,長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗を喫しました。勝頼は入城わずか3か月の新府城に火を放ち,天目山で自害し,武田家が滅亡しました。 市内には,武田家の氏神「武田八幡宮」,信義の菩ぼ提だい寺じである「願がん成じょう寺じ」,また信玄の治水遺構といわれる「将棋頭」,悲運の城「新府城跡」など,武田家ゆかりの史跡・文化財が数多く点在しています。(つながりP.40,P41) 韮崎市は,西には薬師ヶ岳,観音ヶ岳,地蔵ヶ岳などの南アルプスの山々,東には茅ヶ岳に挟まれ,中央を釜無川,塩川が流れています。  韮崎は,甲州街道の宿場町として,古くから人や文化が行き交う交通の要所でした。富士川舟運の発展とともに,舟山を中心に塩や魚の調達地としても栄えました。 韮崎という地名は,「甲斐国志」によれば,片山と七里岩との間にはさまれた大地の南部,穴山の辺から南端の観音山まで,韮の葉のように長く細く突き出た部分に名付けられたとされています。さらに古くは,織田信長が1582年,河かわ尻じり与よ兵へ衛いに与えた文書に「新府にらが崎」とあることからも,よほど古くから用いられていたことがわかります。後に「にらさぎ」となり「にらさき」になったといいます。武田八幡宮(重要文化財)新府城はどんな城だったのかな。なぜここに城をつくったのかな。

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