ふるさと山梨-中学校版-(デジタルブック版)
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88中 央 市2006(平成18)年に三つの町村(田富町・玉穂町・豊富村)が合併して誕生[ A prolic, rich, life cultural city ] 実り豊かな 生活文化都市わたしたちのまち人口31,139人 面積31.69㎢ (H27.10.1) 釜無川により形成された沖積平野の地域と御坂山系からなる地域との二つの地理的特性をもっており,両地域は笛吹川によって隔てられています。平坦部は玉たま穂ほ,田た富とみ地区が笛吹川と釜無川に挟まれた形で位置しており,豊とよ富とみは山間部に広がる地域となっています。 土地の利用状況は,平成22年の資料で見ると宅地が20.7%,農地が27.1%,山林が17.2%,その他35%と,農地の占める割合が高くなっています。 人口の約一割を外国籍の人が占めています。 主な産業は,農業です。農産物直売所「た・から」や「道の駅とよとみ」では,新鮮な野菜を求める多くの買い物客でにぎわっています。大型の商業施設や山梨県流通センターもあります。また,国母工業団地,一町畑工業団地,食品工業団地には,多くの工場があります。 浅あさ利り与よ一いちは,平安時代末から鎌倉時代のはじめに活躍した武将です。弓の名人として,那な須すの与よ一いち,佐さ奈な田だ与よ一いちとともに「三与一」と呼ばれていました。 浅利与一については,「平家物語」に,最後の源平合戦「壇ノ浦の戦い」で,「九尺の弓に十五束の矢をつがえ,四町先の船の舳へ先さきに立っていた新に居いの紀き四し郎ろう親ちか清きよを射抜いた」と書かれています。また,鎌倉時代の歴史書「吾あ妻づま鏡かがみ」には,源頼朝の臣下としてたびたび名前が登場します。 与一の墓は,豊富地区の大鳥居にある大福寺にあります。シルクの里公園内の「与一弓道場」では,与一公を偲しのび,毎年「浅利与一義成公 顕けん彰しょう弓道大会」が開催されます。「玉穂」「田富」「豊富」の地名の由来も知りたいな。源平合戦で大活躍なぜ「与一」と名付けられたのだろう。「一束」「一町」って,どのくらいの長さだろう。浅利与一銅像(豊富シルクの里公園)

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