ふるさと山梨-中学校版-(デジタルブック版)
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21第1章 ふるさと山梨を大観して第2章 心のふるさと富士山第3章 ふるさと山梨を見つめて第4章 私たちのまちを見つめて第5章 未来を考える資 料 編④江戸時代~現在 江戸時代には富士山信仰が最も盛んとなりました。当時,富士山を信仰し登山をするためには,往復で1週間から1か月はかかる旅の費用を用意する必要がありました。そこで,地域や仕事の仲間たちで毎月お金を集めて,代表者が富士山に登る団体をつくりました。こうした団体を「富ふ士じ講こう」と呼ぶようになります。 この富士講の元祖として崇あがめられているのは長は谷せ川がわ角かく行ぎょう(1541?~1646?)という人物です。角行は富士山麓でさまざまな苦行を積み重ねることで得た富士山の神からの教えを弟子たちに残します。富士講はこの教えに基づいて栄えることになっていきます。 富士講の広まりに貢献した人物としては村むら上かみ光こう清せい(1683~1759)と食じき行ぎょう身み禄ろく(1671~1733)という二人の人物がいます。光清は角行直系の弟子であり,江戸に一大勢力を築いていきました。また,傷みが進んでいた北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)の修復のために,多額の支援を行いました。身禄は角行以来の教えを受け継ぎつつ,それをより発展させていきました。 江戸時代,上吉田の町(富士吉田市)は信仰者でにぎわったといわれており,今でも信仰者や他の登山客らが,富士山の山開き(7月)から山じまい(8月)の期間に多数訪れています。富士山に初めて登った女性は男装をしていた? 記録に残っている限りで富士山に初めて登った女性は高たか山やまたつ(1813~1876)という人物です。古来,富士山への登山は山岳信仰の関係から男性のみに認められ,女性は禁ずるという女にょ人にん禁きん制せいが徹底されていました。 江戸時代になり,男女平等を唱えていた小こ谷たに三さん志し(1766〜1841)という男性の協力のもと,たつは1832(天てん保ぽう3)年に富士登山を実現させました。しかしこの登山は,まわりに分からないように,出発は富士山の山じまい後(10月下旬)に,さらにマゲを結うなど男装をしてというものでした。また,山じまい後なので,すでに8合目からは積雪しており,登山はより厳しいものになりました。富士山には,そうまでして登りたいと思わせるものが当時の人にあったのでしょう。 しかし,この後も女性の富士登山は一般化せず,女人禁制は明治時代になるまで続きました。角行の立たち行ぎょう石いし(北きた口ぐち本ほん宮ぐう冨ふ士じ浅せん間げん神じん社じゃ)角行は参道沿いにあるこの石の上で30日間裸体のまま立行をしたと伝えられています。●あなたの地域に浅間神社はありますか。調べてみましょう。●長谷川角行や高山たつ以外にも,さまざまな思いをもち,富士登山に臨んだ人物は大勢います。他にどのような人物がいるか調べてみましょう。

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