ふるさと山梨-中学校版-(デジタルブック版)
22/164

20(3)信仰の対象としての富士山 ~富士山信仰~①平安時代前半まで②平安時代後半③室町時代 約1万年前に誕生した富士山は,これまでに何度も噴火を繰り返してきました。縄文時代には,富士山麓に人々が住み始めますが,こうした火山災害を受けながらも,避難と復興を繰り返しながら暮らし続けてきました。 奈良時代になると,人々は活発な火山活動を繰り返す富士山に,神の存在を意識するようになります。神をなだめようと山の麓には浅せん間げん神社が建てられました。また,遥はるか遠くから拝む「遙よう拝はい」が行われました。  山梨県内では平安時代,864(貞じょう観がん6)年の大噴火のあと,初の浅間神社が建てられました。 平安時代の後半になると,富士山は遠くから拝むだけの対象ではなく,山岳修行者たちが山中で修行をするための場となっていきます。また,平安時代の終わり頃には山頂に寺院が作られるなど,仏教の影響も見られるようになっていきました。そこで,多くの修行者達が,仏ほとけと同じ境地に至ることを目ざして富士山に登るようになりました。 室町時代になると,富士山の修行者が,一般の人を連れて富士山に登るようになります。当時,山を信仰の対象とする山岳信仰には,山そのものを「この世」とは別の「あの世」と見なす考えがあり,それは富士山にもおよびました。つまり,富士山に登り,山頂から下山することは新しく生まれ変わることを意味しました。また,死後には極楽へ行けるとの考えも広がり,より多くの人々が富士山に登るようになりました。あさま?せんげん? 浅間神社のことを「あさまじんじゃ」と呼ぶところと「せんげんじんじゃ」と呼ぶところがあります。これはどちらも正しいのですが,「あさま」の方が古い呼び方といわれています。 古来,火山のことを「あさま」や「あそ」と呼んでいたという説があります。そこで富士山の神を浅あさ間まの大おお神かみと称し,神社も浅あさ間ま神社にしたといいます。「浅間」を音読みすると「せんげん」となり,2種類の呼び方ができました。現在では多くの浅間神社が「せんげん」と称しています。河口浅あさ間ま神社役えんの行ぎょう者じゃ半はん跏か像ぞう(円楽寺 蔵)(画像提供:山梨県立博物館)役行者(生没年未詳)は修験道(山へこもって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする教え)の開祖とされる人物です。

元のページ  ../index.html#22

このブックを見る