ふるさと山梨-中学校版-(デジタルブック版)
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114都 留 市[ A city of education, overowing with nature, history and culture.Working towards a community of hospitality ] 歴史と文化・自然あふれる学園都市おもてなしのまちづくりを目ざしてわたしたちのまち人口32,014人 面積161.63㎢ (H27.10.1) 都留市は,「郡内」と呼ばれている地域に含まれています。(昔は都留を蔓つると表記することもあったようです。) 都留市は,登山客に人気のある山々に囲まれた南北に続く谷間の狭い平地の中に市街地が形成されています。市のほぼ中央に桂かつら川が流れています。 交通網としては,国道139号線や中央自動車道,富士急行線がこの桂川に並走しています。また,リニア実験線と見学センターがあり,近年,多くの観光客が都留市を訪れるようになり,新しい観光施設の建設などで「おもてなし」のまちづくりを目ざしています。都留市の人口規模では全国唯一と言える公立大学法人都留文科大学があり,全国各地から多くの学生が集い勉学に励んでいます。また,幼稚園や保育園,小学校,中学校に都留文科大学の学生が学習ボランティアとして支援し,連携をすすめている学園都市でもあります。産業としては,江戸時代より都留地域は,絹織物の生産が行われてきました。現在は,市の南部の夏なつ狩がりと十日市場地区で,豊富な湧水を利用し,特産物である水かけ菜や山わさび葵などの生産が行われています。空撮写真から,なぜ「都留(つる)」と呼ばれるようになったか,わかったぞ。 武田信玄に仕え郡内地域を支配した小山田氏が,現在の中なか津つ森もりから谷村町に館(城)を移し谷村城を築いたことで城下町としての整備が始まり,城山に勝山城の前身となる城じょう砦さいを築いたとも言われています。江戸時代になると徳川家康により上州から秋元氏が谷村に移された後,泰朝・富朝・喬知の三代による谷村城下町の整備が行われました。特に泰朝は,谷村大おお堰せぎなどの治水や産業に手腕を発揮し,養蚕や織物,特産物の奨励などを行いました。また,城下には松尾芭蕉も逗とう留りゅうし,その際に詠んだ句がいくつも残されています。さらに,「ずいずいずっころばし」のわらべ歌は,都留市が発祥の地だと言われています。こうした歴史と文化の香りの高い城下町であるので市内には,文化財が数多く残されています。主な文化財としては,石いし船ふね神社にある後ご醍だい醐ご天皇の皇子の護もり良なが親しん王のうの御ご首しゅ級きゅうや,勝山城じょう址し,社会の発展を支えた駒こま橋はし発電所落合水路橋,藤村式建築の尾お県がた学校(現在は尾県郷土資料館)などがあります。小お山やま田だ氏と秋元氏三代の城下町・谷や村むらと勝かつ山やま城なぜ泰朝は郡内の絹織物を奨励したのかな。泰朝が造った市内の3本の川は何という名前かな。田原の滝付近に建てられた松尾芭蕉の像

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