ふるさと山梨-小学校版-(デジタルブック版)
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57第4章第5章資料編第1章第2章第3章大たい正しょう時代1989年〜 水田が広がる甲府盆ぼん地ちを中心に,「はらっぱり」とよばれる病気に苦しむ人々が数多くいました。やがて「地ち方ほう病びょう」とよばれるようになったこの病気の原げん因いんと治ち療りょう方法をつきとめるために,多くの医者が研究を重ねました。1996(平成8)年に,ようやく地方病の終息が宣言されました。(つながりP.97, P.101) 1918(大たい正しょう7)年,甲府市市し制せい30周しゅう年ねんの記き念ねん行事が市役所前で行われました。同じ年,米の値ね上あがりによる米こめ騒そう動どうが全国に広がり,甲府でも山梨県一の財ざいばつである若わか尾お家けが焼やきうちされました。 1907(明めい治じ40)年と1910(明治43)年に,山梨県は水すい害がいで大きな被ひ害がいを受けました。この水害で3000人以い上じょうの人が住みなれた山梨をはなれ,北海道に移うつり住みました。 1923(大正12)年9月1日,大おお地じ震しんが関かん東とう地ち方ほうをおそいました。この地震は「関東大だい震しん災さい」とよばれ,山梨県でも死し者しゃやけが人が出たり,家が倒たおれたりして,大きな被ひ害がいが出ました。●苦く難なんとたたかった山梨●大きくゆれ動いた山梨外国へ移り住んだ人々のことを聞いたことがあるけど…。災さい害がいに対して,しっかりと備そなえておくことが大切ですね。1907(明治40)年の水害(明治四十年八月下旬山梨県水害実景)市制30周年の記念行事(甲府市教育委員会)大正時代の柳やなぎ町まち大通り(今の甲府市中央4丁目)(山梨県立博物館蔵)地方病流行終しゅう息そくの碑ひ(昭しょう和わ町ちょう 風ふう土ど伝でん承しょう館かん杉すぎ浦うら医い院いん)

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