ふるさと山梨-小学校版-(デジタルブック版)
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54鎌かま倉くら時代室むろ町まち時代安あ土づち桃もも山やま時代1192年〜1338年〜1573年〜 鎌かま倉くら幕ばく府ふの成せい立りつには,「甲か斐い源げん氏じ」とよばれた甲斐の武士たちもかかわりました。甲斐源氏の武たけ田だ信のぶ義よし・安やす田だ義よし定さだなど,甲斐国の武士が平へい家けの軍ぐんとの戦たたかいで活かつ躍やくしました。 鎌倉時代の後半,元げんの軍ぐん隊たいが日本にせめてきたころ,民みん衆しゅうや武士が心のよりどころにした新しい仏ぶっ教きょうが広まりました。日にち蓮れん宗しゅうを開いた日蓮が,身み延のぶ山さんの草そう庵あんに住んだのもこの頃ころです。 室むろ町まち時代の後半は戦せん国ごく時代ともよばれ,甲斐国にも有力な戦国大だい名みょうとなる武田信しん玄げん(晴はる信のぶ)が登場します。信玄は戦いで領りょう土どを広げながら,領りょう内ないの政せい治じにも力を発はっ揮きしました。 信玄は,三み方かたヶが原はらの戦いで徳とく川がわ家いえ康やすをやぶります。しかし,信玄の死後,武田家は長なが篠しのの戦いで織お田だ信のぶ長ながにやぶれ,滅めつ亡ぼうしました。その後全国を統とう一いつした豊とよ臣とみ秀ひで吉よしの命めい令れいで,甲斐の政治の中心となる甲こう府ふ城じょうが造つくられ始めました。 領土を広げる中で越えち後ご国のくにの戦国大名上うえ杉すぎ謙けん信しんとは5回も戦いました。●武ぶ士しがかけめぐった山梨源げん平ぺい合かっ戦せん図ず屏びょう風ぶ(山梨県立博物館蔵)日にち蓮れん聖しょう人にん像ぞう(身み延のぶ町ちょう 久く遠おん寺じ蔵)武田信玄像(山梨県立博物館蔵)八はち幡まん原はら史し跡せき公園(川かわ中なか島じま古こ戦せん場じょう,長なが野の市)◎信しん玄げんを調べるキーワードを紹しょう介かいします。 風ふう林りん火か山ざん 甲こう州しゅう法はっ度と 金きん山ざん 武たけ田だ騎き馬ば隊たい 信しん玄げん堤づつみ 棒ぼう道みち上杉謙信との戦いは,どんなものだったのだろう? 戦いの目的や場所,結果はどうだったんだろう?

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