ふるさと山梨-小学校版-(デジタルブック版)
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53第4章第5章資料編第1章第2章第3章奈な良ら時代平へい安あん時代710年〜794年〜 奈な良らに平へい城じょう京きょうという都があった時代,都には東とう大だい寺じ,地方に「国こく分ぶん寺じ」「国こく分ぶん尼に寺じ」が建たてられました。この頃ころには,山梨県は「甲かいの斐国くに」とよばれるようになっていました。甲斐国の国分寺・国分尼寺跡あとが笛ふえ吹ふき市しに残のこされています。 右の木もっ簡かんは平城京で出土したものです。この木簡は荷に物もつの荷に札ふだとして使われ,甲斐国から都へくるみを送ったことが記されています。 京きょう都との平へい安あん京きょうという都みやこが栄さかえた時代,甲斐国には「牧まき」とよばれる馬を育てる牧ぼく場じょうがあり,毎年決められた数の馬が都へ送られました。甲斐の馬はすぐれた馬として大切にされました。 太子は598(推すい古こ6)年4月に全国から良りょう馬ばを集めました。数百頭とうの中から,甲斐国から来た4本の足が白く体の色は黒い馬を神しん馬めであると見抜ぬき,育てました。太子が試し乗じょうすると馬は天高く飛とび上がり,富士山を越こえ,その3日後,都へ帰き還かんしました。●都とつながっていた山梨馬の骨ほね朝あさ気け遺跡(甲府市)『聖しょう徳とく太たい子しと黒くろ駒こま』の伝でん説せつ木簡(複製)(山梨県立博物館蔵)原資料奈良文化財研究所山梨県立博物館蔵甲斐国分寺跡出土の鬼おに瓦がわら(笛吹市教育委員会蔵)(イメージ図)甲か斐い国こく山やま梨なし郡ぐん雑ぞう役やく胡くるみ桃子一いっ古こなぜ甲斐から都へくるみが運ばれたのかな?

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