ふれあい特集号vol.33(デジタルブック版)
19/24

19 浅川巧は明治24(1891)年、八ヶ岳を望む北巨摩郡甲村(現在の北杜市高根町)に浅川如作の次男として生まれた。浅川家は染め物屋を兼ねた豊かな農家であったが、厳しい風土での暮らしは決して楽ではなかった。明治末、県下を立て続けに襲った大水害を目の当たりにした若き巧は、自然の営みを学び疲弊した国土の緑化を志す。 兄・伯教とともに甲府に下宿し、県立農林学校を卒業。林業技師として秋田県大館営林署で働きながら、巧の関心はやがて広い東アジアに向かっていく。大正3(1914)年に、巧は兄を慕って朝鮮半島に渡り、朝鮮総督府農商工部山林課に職を得、じかに朝鮮半島の風土と文化に触れることになる。 巧の美意識は、彼が生まれた故郷の風土と兄・伯教による教え、「民芸運動」の創始者・柳宗悦に感化されたことが大きい。伯教は、教員をしながら白樺派の文学に心惹かれ、自らも絵や彫刻を制作。近代西洋の息吹を巧に伝えた。そして柳宗悦との出会い。柳の「民芸運動」は、暮らしに根ざしたおおらかな民衆の美を再評価する運動で、山梨に何度か足を運び浅川兄弟と懇意になっている。 朝鮮半島に渡った巧は、全土をくまなく歩き、伐採により荒廃した山野の緑化事業に取り組みながら、次第に朝鮮の文化に惹かれていく。兄と共に朝鮮古窯の窯跡の調査、木工芸品や白磁など陶磁器の収集にも心血を注いだ。朝鮮の人と同じ立場でその文化を愛する巧の姿勢は、多くの朝鮮の人々に感銘を与えた。そして彼の抜きんでた朝鮮文化への見識は、「民芸運動」の展開にも大きな影響を与えていく。 巧は、柳と伯教と共に、朝鮮の景福宮に念願の「朝鮮民族美術館」を設立。朝鮮文化の研究に没頭し、その成果を著書『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』に残すが、昭和6(1931)年、急性肺炎のため40歳の若さで急逝する。林業技師として出発した青年白磁のような無垢な心民芸運動と朝鮮文化との出会い北杜市での上映会日程●高根ふれあい交流ホール 7月8日(日)午後6時30分~●須玉ふれあい館ホール 7月21日(土)午後2時~ 午後6時30分~ (2回上映)●当日券 一般1,800円 大学生・専門学校生1,500円    高校生以下1,000円 ※協賛前売券(1,000円)利用可■問い合わせ先 浅川伯教・巧兄弟資料館        TEL 0551-42-1447道-白磁の人-6月9日から全国ロードショー上映劇場や期間など詳しくは映画公式サイトでご確認ください。検索白磁の人浅川伯教・巧兄弟資料館北杜市高根町村山北割3315 TEL 0551-42-1447現在の北杜市で生まれ、朝鮮工芸の美に惹かれ、世界に伝えた浅川伯教・巧兄弟の業績を伝える資料を展示。日本植民地下の朝鮮、伝統的な磁器、木工芸などとともに「朝鮮陶磁史の研究に先駆的に取り組んだ兄」と「朝鮮の山野と民衆を愛し民芸を再発見した弟」の生涯を紹介している。伯教に学んだ韓国陶芸界の巨匠・池順鐸氏の白磁無地壺(浅川伯教・巧兄弟資料館蔵) 自身が愛した白磁のような無垢な心で、朝鮮の人々と接した巧。京城の里門里の墓地に朝鮮の人々により手厚く葬られた。慕われた人格と業績は高く評価され、追墓碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。現在はソウル郊外の忘憂里公園墓地にある浅川巧の墓(中央)兄・伯教が建立した白磁壺の供養塔(右端)韓国林業試験場職員一同が建立した追墓碑じょさくのりたかおおだてやなぎ むねよしかぶとチ・スンテク〈記事監修〉山梨大学 教育人間科学部教授 齋藤康彦キョンボックンキョンソンイムンリマンウリむ く

元のページ  ../index.html#19

このブックを見る