ふれあい特集号vol.32(デジタルブック版)
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さに現在の新幹線に通じている。 常に時代の先を見据え、社会事業に取り組んだ敬次郎。明治34(1901)年に東京商品取引所(現在の東京工業品取引所)の理事長に就任し、明治40(1907)年には17の会社の経営に携わるなど、甲州財閥の一人としてもその名を知らしめた。 敬次郎が情熱を傾けた中央線の開通は、山梨に近代化をもたらし、今日の発展へとつながっている。〈記事監修〉山梨大学 教育人間科学部教授 齋藤康彦明治36(1903)年に甲府まで開通した。明治39(1906)年には鉄道国有法が公布され、甲武鉄道は国有化された。 これは、敬次郎が以前から訴え続けてきた「鉄道国有論」の実現であり、甲府までの路線もかつて敬次郎が調査した路線とほぼ同じだった。また敬次郎は当時、「鉄道国有論」とともに「鉄道広軌論」も主張。鉄道を長距離かつ高速化するために広軌で敷設すべきだというもので、それはま中央線と雨宮敬次郎◀小金井名所図会 (明治39年)明治時代の『風俗画報』の表紙。当時名所として有名だった小金井の桜を見に訪れた人であふれる国分寺駅▲蒸気車往復繁栄之図(明治22年)甲武鉄道開業時の新宿から八王子までの観光地や村々の様子が描かれている雨敬橋重川に架かる「雨敬橋(あめけいはし)」は敬次郎が郷土に残した社会事業の一つ。今もその名を残している敬次郎の生家(改築前)隣には伊藤博文が泊まった離れがある中央線笹子トンネル西口中央線開通への熱い思い県立博物館 かいじあむ県立博物館 笛吹市御坂町成田1501-1TEL055-261-2631かいじあむ検 索「山梨の自然と人」をテーマにした参加体験・交流型の博物館。雨宮敬次郎に関する資料も展示中央線八王子―甲府間の開通を切望した敬次郎。その開通直前には伊藤博文を自宅に招き、県内外の有志を集めて盛大な祝宴を催した。

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