50年のあゆみ
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昭和50年代は、全国的に林野火災が多発し、昔ながらの人海戦術では近代消防の沽券に係わるので、この風評を打破すべく、自治省消防庁と防衛庁とがタイアップしてヘリコプターによる空中消火の導入を決め、陸上自衛隊保有の新鋭HU・1B型の中型ヘリと大型ヘリ・バートルの2機種を試験的に使い、北富士演習場において数次に亘る消火実験を繰り返したのだった。 丁度その頃、私は山梨県消防学校の「火災防ぎょ活動」担当だったためか、「ヘリコプターによる空中消火準備操法マニュアル」の起草を命ぜられ、参考文献の少ない中、試行錯誤の末、漸く脱稿し、何回か自衛隊ヘリを使い実地訓練を繰り返していた。操法のあらましは、地元消防団員が小型ポンプを使用し、消火剤を混入した水を大型水嚢に迅速に詰め込み、ヘリコプターの下部のフックに吊り下げるといった一連の作業の組み立てである。ヘリが実践で水嚢を開き、「空中消火」できるか否かが私の最も不安の種だった。 ある晴れた日、都留市に“林野火災” 発生。瞬間閃いたのは、恐怖と不安以外何物もなかった。遂に訪れたか「運命の日」。自衛隊大型トラックと共に 消防学校を出発し、都留市の火災現場直近の仮設ヘリポートに到着したのは、14時頃だった。予て訓練した十 数名の消防団員が待ち受ける中、機材の再点検と水利の確認。直ちに実践行動に移った。ヘリもローターを回転したまま待機していた。予てマニュアル通りの一連の作業は速やかに進行した。満タンの水嚢がヘリの下部に掛けられると一気にヘリは離陸し、急峻な火災現場に姿を消した。私は願った、祈った、叫びたくなった。ヘリよ頼む。「カラ水嚢」を吊るして帰ってきてくれよと・・・。 数分が過ぎると、軽快な爆音と共にカラ水嚢を振りながらヘリの機影が目に入ったのである。成功、空中消火の成功である。嬉し涙が頬を伝うのを払い、こすりながら、第2回、第3回と空中消火・地上給水作戦は続いた。作戦5回目頃、ヘリのパイロットから搭乗を要請され、空中消火の体験が急降下爆撃ならぬ危険極まる恐怖の急降下作戦だったのも今は懐かしい思い出である。 消防学校時代を振り返ると、あっという間の18年間だった。県庁奉職38年のうち、約半分は消防畑で碌を食んだわけであるが、張りつめた緊張とは裏腹に、時には明るい雰囲気の中で消防職団員への文武両道会得のための訓練礼式、予防・警防・救急・救助訓練の数々、兵たちの人生劇場、愛すべき消防の館は私の生涯の誇りであり、何物でもない。 ある出来事 山梨県消防学校 第11代校長 長田 冨夫 寄稿文 ‐40‐

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